ULDAH MINISTRY

LETTER TO THE BROTHERS AND SISTERS IN CHRIST

わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。

イザヤ65:1

第107号  2004 年8月27日


   ヨセフは十七歳のとき、彼の兄たちと羊の群れを飼っていた。彼はまだ手伝いで、父の妻ビルハの子らやジルパの子らといっしょにいた。ヨセフは彼らの悪いうわさを父に告げた。イスラエルは、彼の息子たちのだれよりもヨセフを愛していた...彼の兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、彼と穏やかに話すことができなかった。あるとき、ヨセフは夢を見て...彼らに言った。「どうか私の見たこの夢を聞いてください。見ると、私たちは畑で束をたばねていました。すると突然、私の束が立ち上がり...あなたがたの束が回りに来て、私の束におじぎをしました。」...ヨセフはまた、他の夢を見て、それを兄たちに話した...「見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいるのです。」...兄たちは彼をねたんだが、父はこのことを心に留めていた...
   ききんが全世界にひどくなったので、世界中が穀物を買うために、エジプトのヨセフのところに来た...ヨセフの十人の兄弟はエジプトで穀物を買うため下って行った。しかし、ヤコブはヨセフの弟ベニヤミンを兄弟たちと一緒にやらなかった。わざわいが彼にふりかかるといけないと思ったからである...
   ユダが父に言った。「あの方は私たちをきつく戒めて...あの子を私といっしょにやらせてください...私自身が彼の保証人となります。私に責任を負わせて下さい...」父イスラエルは言った。「...連れて...出かけて行きなさい。全能の神がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように...私も、失うときは、失うのだ。」...

   ヨセフの兄弟たちが来たという知らせが、パロの家に伝えられると、パロもその家臣たちも喜んだ...神は夜の幻の中でイスラエルに...「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民にするから。わたし自身があなたといっしょにエジプトに下り、また、わたし自身が必ずあなたを再び導き上る...」...ヤコブから生まれた子でエジプトへ行った者は...みなで六十六人であった...イスラエルはエジプトの国でゴシェンの地に住んだ。彼らはそこに所有地を得、多くの子を生み、非常にふえた。                    創世記37〜47章  
                     
   兄たちのねたみの犠牲にされ、十七歳でエジプトに奴隷に売られたヨセフは、同じように同胞のユダヤ人に憎まれ銀貨三十枚で売られ、十字架につけられたイエス・キリストの『予型』(後に現れる本物の予兆、影という意味で、仏教、一部の新興宗教などが信奉する輪廻転生、霊魂再来のことではありません。聖書は、個々人は神のかけがえのない一回きりの創造、後にも先にも独自の存在であることを主張しています。この世に生、肉の体を受けるのも一回きりであれば、やがて不死の体、すなわち、甦りの体を受けるのも一回きりです。同じ、肉の体への生まれ変わりはあり得ません)とみなされている、聖書の中でもまれな名実ともに欠点の指摘できない神の人です。いつも神を信頼し、物事を肯定的に捉えることのできたヨセフの存在は、異邦の民エジプト人たちにとっても慰め、喜びとなります。奴隷として買い取られた先の主人に愛され信頼されたヨセフは、神の祝福によって十三年後には、エジプト王パロの不思議な夢を解読したことにより、パロに次ぐ位のエジプト全土を支配する大臣に引き上げられます。しかし、神の祝福がヨセフに決して順風満帆な人生を保証したわけではなく、神の知恵に富み、若くて「体格も良く、美男子であった」(創世記39:6)ヨセフへのサタンの攻撃は強く、主人の妻による性的誘惑、中傷、十一年間の忠誠の後の突然の解雇、無実の、むしろ神に忠実であったがゆえの投獄、釈放嘆願が忘れられ試練の獄中生活二年間と、神への従順が報われないかのような忍従の年月でした。
   さて、パロに奴隷の身分から大臣に引き上げられエジプトの全支配を任されたヨセフは神の啓示に従い、最初の七年間の豊作年に食糧を蓄える経済政策を推し進め、続く七年間の飢饉に備えます。そのような時、ヨセフの兄弟たちがカナン全土に及んだ飢饉のため穀物を買いにエジプトにやって来たのでした。エジプトの大臣になっていたヨセフと十人の兄たちの二十余年後の再会です。この時点から、一目で兄たちを認識したヨセフとそうとは知らない兄たちの和解、赦しに向けての感動的なドラマが展開して行きますが、罪の赦しが起こるには、罪人の『悔い改め』(神から離れ、不従順であったそれまでの自分中心、的外れの人生を認め、完全に方向転換して神中心の人生へと、神に立ち返ること)がまず起こらなければなりませんでした。兄たちをエジプトのすきを窺いに来たスパイ呼ばわりしたり、末の弟ベニヤミンをエジプトに来させるために人質としてシメオンを監禁したり、穀物を満たした兄たちの袋の中に代金の銀をそっくり戻させたり、道中の食糧を与えたりと、愛、顧みと無慈悲、裁きの交錯した、ヨセフの兄たちへの一見不可解な言動、企てはすべて、身に降りかかる状況をどのように受け止め対処するかで兄たちの心を探る、まさにヨセフの背後におられる神の愛のむちでした。雲上の人、エジプト最高位の大臣ヨセフがどういう人物なのか、何を考えているのか全く分からない兄たちは、不安と恐れから、「ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれがわれわれにあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでわれわれはこんな苦しみに会っているのだ」(創世記42:21)と、心の奥底に押し込まれたまま未清算になっていた過去の罪に連れ戻されて行きます。
   父ヤコブの許に帰った兄たちにとって難題は、ヨセフ亡き後父の寵愛を受けていた末の弟ベニヤミンをどのように父を説得してエジプトに行かせるかでした。息子たちの説明を聞き、「私の子は、あなたがたといっしょには行かせない」と、妻ラケルに生まれた息子しか自分の子と認知していないかのようなヤコブの態度は頑なになるばかりでしたが、ルベンの説得に応じなかったヤコブもついに自分も「失うときには、失うのだ」と、ユダの説得に応じ、兄弟たちは再びエジプトへ向かいます。二人の息子を失う悲しみを経験していたユダだけが絶望のどん底にあったヤコブの心を揺さぶることが出来たとしたら、ヤコブ一族が、「生きながらえ、死なない」(創世記42:2)ためには、ユダは自ら悲しみを克服する経験を通して、他人の悲しみを心から理解出来る者として、この時に備えられている必要があったと言えます。しかし、ベニヤミンを伴い重大な責任を担って、覚悟を決めてエジプトに戻って来た兄たちを待っていたのは、更なる試練、かつてなかったような大試練でした。ヤコブが「彼にわざわいがふりかかれば、あなたがたは、このしらが頭の私を、悲しみながらよみに下らせることになる」(創世記42:38)と警告した当のベニヤミンがヨセフの大切な銀杯盗難の罪に問われ、奴隷としてヨセフの許に留め置かれなければならないという事態が起こったのです。ベニヤミン以外はすべて無罪と宣告したヨセフに、ユダが真剣な執り成しを始めます。末の弟が父にとって如何に大切な存在であるかの事情を説明しユダは、「どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなたさまの奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと帰らせてください...私の父に起こるわざわいを見たくありません」(創世記44:33)と、自分が身代わりになることを条件に弟の釈放を嘆願したのでした。二十二年前、弟をどうせ無き者にするなら奴隷に売ったほうが益になると考えての偽善で兄弟たちを説き伏せヨセフをエジプトに売ったあのユダとは全く別人ユダの、自己犠牲の申し出でした。
   「人がその友のためいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です」(ヨハネ15:13−14)とキリストは、最後の晩餐の夜、十一弟子に最後の戒め、『互いに愛し合うこと』を語られましたが、ユダの言葉は文字通り、心からの悔い改めの表明でした。悔い改めに導くのに、神はよく私たちを罪を犯したところ、状況に引き戻す手段を用いられますが、ユダの場合もそうでした。ユダは、かつて自分が奴隷に売ってしまったヨセフ当人の前で、今度は自分をベニヤミンの代わりに奴隷にして下さいと嘆願することによって、そうとは知らず過去の罪の清算を願っていたのです。主を裏切った使徒ペテロの場合もそうでした。ペテロにとって主が十字架刑に処される直前の夜を象徴するのは、赤々と燃えていた大祭司の家の中庭の焚き火(炭火)でした。火明かりの中に座っているペテロを見た者たちが口々に、「確かにこの人も、彼(イエス)といっしょだった」(ルカ22:54−60)と言い張ったのに恐怖が募り、一時間ばかりの間に三度も主を否定してしまったのでした。イエスの予告通り鶏が鳴いたとき、振り向かれ焚き火越しにペテロを見つめられたイエスのまなざしは、ペテロの心に取り返しのつかない大きな悔恨、良心の呵責を刻み込んだのです。悔い改めたペテロが完全に立ち直るには主による赦しの確信が必要でした。主は甦られた後ガリラヤ湖の湖畔にて、早朝のペテロとの問答を通して、この罪の清算をして下さったのです。裏切りの夜を思い出させる「炭火」で焼かれた魚とパンの朝食を介して主は、ペテロに赦しの確証と、「神の栄光を現わす」新生の生涯の約束、新たな召名を与えて下さったのでした(ヨハネ12章)。同様に、眼前に突然姿を現わした弟ヨセフに、ユダはじめ兄たちは一瞬過去の罪へと恐怖のどん底へ追いやられますが、同時にそれは赦しの確信の時、まさにキリストの甦りに匹敵する驚愕、新局面の展開の時となったのでした。「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです...大いなる救いによってあなたがたを生きながらえさせるためだったのです」(創世記45:4−7、下線付加)と、すべてを神のご計画に帰し、兄たちを完全に赦し、一層厳しくなる飢饉の間もエジプトの地でヤコブ一族を養うことをヨセフは約束したのです。このヨセフの言葉は、自らの罪を認め、悔い改めて完全に赦された者への、キリストの「永遠のいのち」を保証する言葉を思い起こさせるものがあります。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい...あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです」(ヨハネ14:1−3)。
   ヨセフが自らの人生を語ったとき、繰り返し「神」を語ったということは注目に値します。主人の妻から性的誘惑を受けたとき、「どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか」(39:9)、夢を解き明かしたとき、「それを解き明かすことは、神のなさることではありませんか」(40:8)、パロの夢の解き明かしに際して、「私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです...神がなさろうとすることをパロに示されたのです」(41:16、:25)、肉親から引き離された、エジプトでの孤独な生活の中で、長子マナセが授けられたとき、「神が私のすべての労苦と私の父の全家とを忘れさせた」(41:51)、次男エフライムが生まれたとき、「神が私の苦しみの地で、私を実り多い者とされた」(41:52)、父ヤコブの死後、復讐を恐れた兄弟たちに対して、「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした...私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう」(50:19−21)と、ヨセフが神中心、神のご計画を第一とする世界に生きていたこと、この世に在っても「神の国」に生きていたことをこれらの証しは語っています。これが、ヨセフが人生を最後まで神の祝福のうちに終わらせることの出来た秘訣でした。ヨセフが、順境にあろうと逆境にあろうと、目に見えるこの世の事象、事、物、人に一切惑わされなかったのは、神への絶対的信頼と、神がすべてを統率しておられるという揺るがない確信に加え、その全知全能の神から一瞬たりとも目をそらさなかったという点にあるのではないでしょうか。
   幼い時から父ヤコブの愛の許で、父祖アブラハム、イサクの神を畏れることを学び、神の権威と守りに身を委ね、神の力を行使することのできたヨセフは、神の不思議なご計画の中で霊的には兄弟たちの霊の覚醒、神への立ち返りに寄与し、物理的にも飢饉からヤコブ一族を救い、神がアブラハムに約束された預言が成就する道を開いたのです。

 

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