ULDAH MINISTRY

LETTER TO THE BROTHERS AND SISTERS IN CHRIST

わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。

イザヤ65:1

第108号  2004 年9月24日


   私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行いからの回心、神に対する信仰、きよめの洗い(複数)についての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。                                     へブル人6:1〜2.    
   ヘブル人への手紙の著者は、信仰の破船に陥りかけていたクリスチャンに語り掛けました。彼らはごく初歩的な教え @悔い改め A罪の暗闇から光の神に立ち返る信仰 B種々のバプテスマの違い C祝福、癒し、任命、聖霊のバプテスマのための按手 D死人の復活 E永遠の裁き― から少しも進まない、キリストの言葉を借りれば、「みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れるが、自分のうちに根がないため、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしま(う)」人たち、「みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない」人たちでした。しかし、「耳が鈍くなっているため、解き明かすことが困難で」あり、「年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要がある」信者が当時多くいたということは、本人たちの責任はさておき、み言葉、イエスの教えが的確に教えられていなかったことにも原因があったようです。「後の時代になるとある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようにな(る)」(第一テモテ4:1)とパウロが御霊に示されて警告したように、違った教えを説く偽教師、偽預言者、反キリストが現われ、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願わない者たちを惑わすようになっていたからです。惑わされないように真理がしっかり培われているべきだったのですが、このことはすでに一世紀後半に教会の問題となっており、自分に都合の良い、不健全な教えに簡単にそれて行き、「いつも学んではいるが、いつになっても真理を知ることのできない」(第二テモテ3:7)信者たちが背信の脅威にさらされていたのでした。
   情報が氾濫し、善悪、聖俗の規準があいまい、相対的になり、違いを正しく教えることの出来る者がいなくなっている今日も、まさにそういった信仰の危機の時代です。キリストの教えに忠実に留まり困難に耐え、信仰を守り通そうとする者たちが少数ではあっても確かに残される一方で、反対勢力はますます広がり、「悪人や詐欺師たちは、だましたりだまされたりしながら、ますます悪に落ちて行く」(第二テモテ3:13)両極化の時代です。そこで、使徒たちの警告に耳を貸し、私たちも聖書の真理、キリストの教えを正しく受け留めているかどうか常に吟味することは自らの信仰の成長と、背信からの防御のため欠かせないことです。キリストの証し人が成熟、完全を目指して進むことを奨励したヘブル人への手紙の著者は、基礎的な教えとして前掲の六つを挙げました。この基礎がしっかりしていなかったために多くが惑わされ、信仰の破船に会ったからでした。これらの教えを理解しておくことはキリストの証し人には当然のことなのです。
   キリストへの信仰の第一歩は、悔い改めから始まります。神への悔い改め(神に立ち返ること)、そして次にキリストへの信仰という順序が、新約聖書の一貫した主張です。悔い改めのない信仰表明はあり得ないのです。洗礼者ヨハネは、イスラエルが悔い改めて父なる神にまず立ち返り、約束のメシアを待ち望むようにと、「罪が赦されるための悔い改めのバプテスマ」(マルコ1:2−4)を説きました。ヨハネの宣教によってこの世にメシアとして告げ知らされたイエス・キリストご自身も、ヨハネが投獄された後、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:14−15)と、宣教を始められました。さらにキリストの死と復活の出来事の後、主イエスが弟子たちに残されたメッセージは、「その(イエスの)名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる...」(ルカ24:47)で、最初の福音大伝道のチャンスが訪れたペンテコステの日曜日(「種入れぬパンの祭り」の翌日の安息日から数えて五十日目)に、使徒ペテロのメッセージにひどく心を打たれ、回心を求めた人たちに使徒が与えた指示も悔い改めでした:「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい」(使徒行伝2:37−38)。同様に、使徒パウロがエペソで、ユダヤ人にもギリシャ人にも偏りなく語ったことは、「神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰」でした(使徒行伝20:21)。このように、信仰に先行すべき悔い改めを、新約聖書は、感情的にではなく決意によって、『心を変えること』と定義し、心の完全な内的変化を強調しています。一方、へブル語聖書では、心の変化による行動への表われ、『立ち返る』という外見的な変化を強調する表現でした。したがって、真の悔い改めとは、従来の方針、目標、方向を完全に変えてしまうような心の内的変化への決意であり、相応の変化が言動に現れる神への立ち返りということになります。イエスを裏切ったイスカリオテのユダや、長子の権利をないがしろにしたエサウに見られたように、どんなに涙を流して嘆き、後悔しても、自分中心の道を捨て、方向転換して神に返らない限り、悔い改めではないのです。また、どんなに慈善事業、宗教行事に専心し、教会の規則を守り、熱心に礼拝に通っても、自分の罪(神への反逆)を認めず、自分中心に生きている限り、すなわち、「死んだ行ないからの回心」がない限り、真の悔い改めではないのです。
   「望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるもの」(へブル人11:1)と定義されている信仰は、聖書では、神の言葉、神の約束との関係で語られています。『希望』がまだ現実でないことを将来に期待する精神的な心の働きであるのに対し、信仰は、今、心の中に確立される、すでに得た現実のことに対する確証です。聖書の語る信仰とは、告白した者の心の中に明らかな変化を生み出させ、生き方、行動、習慣にキリストに似た者へとの動きをもたらしめる心の働きで、神が主導権を執られる神の賜物なのです。真の信仰には、単に聖書の真理、教理を受け入れたというだけの精神的、知的理解による心の働きとは違って、明らかに、心の内から沸き起こる喜び、力、動機がみなぎり、今、この地上ですでに神の国に生きるということを可能ならしめる内住の神の霊の促し、動きが伴うのです。したがって、真のキリストの証し人とは、心の中ですでに現実のこととなった永遠のいのちを確証し、今、神の国の前味わいを体験している者で、自らの弱さ、無力さ、敗北、不義、限界を、キリストの強さ、力、勝利、義、万能に完全に委ねて、もはや目に見えるこの世の価値観、肉の感覚、兆候にではなく、神の言葉、約束、啓示を信頼して生きる者ということになります。
   三つ目のバプテスマ(邦訳では「きよめの洗い」)は複数形であることから、当時行なわれていた種々のバプテスマに言及しているようです。まずこのバプテスマと邦訳されているギリシャ語は、聖書だけでなく、他の資料でも一貫して、『ものを水、あるいは、何らかの液体の中に浸す、浸ける』という意味で用いられており、イエスがお手本を示してご自身受けられた洗礼という儀式が、今日多くの教会で行なわれている滴礼ではなく、全浸(水)礼であったという事実は今日も踏襲されるべきもので、それゆえ、全浸礼には物理的にも霊的にも深い意味があることが洞察されます。当時、水のバプテスマとして、ヨハネの悔い改めのバプテスマ、キリストの名によるバプテスマの他、ユダヤ教の改宗者に対するバプテスマが行なわれていましたが、紙面では、後者と教会の時代を特徴付ける聖霊によるバプテスマを除く、最初の二つのバプテスマに絞って、考察してみたいと思います。使徒行伝19:1〜5には、パウロがエペソでイエスの弟子と称している人たちに出会いますが、実際には「ヨハネのバプテスマ」しか受けておらず、そこでパウロが「イエスの名によるバプテスマ」を授けたことが記されていますから、両者が違うものであったことは明らかです。この出来事から、イエスの福音が広められて以降は、ヨハネの悔い改めのメッセージも、バプテスマもその橋渡しとしての役割りが終わり、自動的にイエスの名による救い、バプテスマに置き換えられて行ったと知ることが出来ます。ヨハネのバプテスマは、悔い改めて口で公に告白した者が自分のうちに起こっている内的変化を行動で立証したとき初めて授けられた、外的な言動の変化を承認するバプテスマでした。言い換えれば、悔い改めと罪の赦しをすでに体験した者が公に認められるための儀式だったのです。しかしこのバプテスマはあくまでも来るべきメシアに対して神の民の心を備えさせるためのものでした。洗礼者ヨハネの父ザカリヤに御使いを通して与えられた神の啓示の中に、このことは語られていたのでした:「彼(ヨハネ)は...イスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです」(ルカ1:15−17)。実際イエスの弟子の多くがヨハネの弟子であったことから、この世の視点からは全く報われない人生でしたが、ヨハネは自分に託された役割りを見事に果たし、主の御許に召されたのでした。
   さて、告白する罪のないイエスが、「今はそうさせてもらいたい。すべての義を実行するために、このようにすることはわたしたちにふさわしいのです」(マタイ3:15.NIV訳)と言われて、ヨハネから洗礼を受けられた理由は、キリストに従う者に行動の基準を示され、お手本を残されたということと、すべての義をご自身において完成させられるためでした。キリストの名によるバプテスマは、イエスご自身のバプテスマの例にならえば、全浸水礼で、キリストに従う者たちが、父なる神の義をキリストにおいて全うし、弟子としての信仰と従順を表明するために当然受けるべき儀式でした。したがって、キリストの名によるバプテスマは単に信者の悔い改めと罪の告白の証拠としての儀式ではなく、イエスが父なる神への従順を表明する行為としての洗礼を経て、三年半の福音宣教のミニストリーに入られたように、キリストの義に与った者の主に在る新しい歩みの第一歩を画するものでした。イエス・キリストの死と復活を信ずる信仰によって可能になった「正しい良心の神への誓い」(第一ペテロ3:21)の実践です。このことはまた、キリストの名によるバプテスマが、悔い改め、告白し、正しい良心で神に答えて行く年齢に到った者を対象に授けられるものであり、一部の教会で行なわれている幼児洗礼が聖書の教えではないことを明らかにしています。
   さて、悔い改め、キリストを信じ、洗礼を受けた者がいよいよ始めることになる主に在る歩みとは、「正しい良心」で神に答えて行くことです。すなわち、救いの喜び、恵みを周りの人たちに宣教して行くことです。このステップ以降は、ヘブル人への手紙の著者が奨励した成熟した信者の歩みに入りますが、その他の初歩の教えC〜Eに関しては紙面の都合上、次回に回すことにして、弟子としての歩みをのぞいて見ることにしましょう。すべての福音書にイエスの大宣教命令が記されていますが、マタイによる福音書は、『天においても、地においても父なる神から一切の権威が与えられているキリスト』に従う者、すなわち、キリストの権威の下に置かれているキリストの証人たちに対し、「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい」(28:19−20)と、弟子を作り、洗礼を授け、キリストの教えを守るように彼らにより詳細な指示と指導をして行くことが、成熟した証し人の役割であることを明らかにしています。このようなステップを経て新しく誕生した証し人たちは、またキリストのお言葉に忠実に、全世界に出て行き、弟子作り、洗礼の授与、成熟した信者を送り出すという輪を広げて行くのです。神の国に国籍を置く、神の家族のメンバー、キリストを牧者とする群れの広がりです。基礎的なステップから成熟へと進んだ証し人たちは、だれでもキリストの大宣教命令を実践するに相応しい者として、キリストの権威の下で、キリストから召名を受けているのです。宣教に必要な言葉、知恵、勇気はすべてキリストが与えてくださいますから、勇気をもって一歩を踏み出し、「信仰と忍耐とによって約束のものを相続する(聖徒たち)に、ならう者」(ヘブル人6:12)となろうではありませんか。            

 

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