ULDAH MINISTRY

LETTER TO THE BROTHERS AND SISTERS IN CHRIST

わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。

第109号  2004 年10月29日


   それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」 主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれた。そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。                           マルコ16:15〜20.    
   罪を悔い改め、キリストを信じ、信仰告白し、全浸水礼の洗礼を受け、「正しい良心の神への誓い」(第一ペテロ3:21)の実践を始めた者たちが、成熟した「キリストの証し人」であることを先月号で学びましたが、ヘブル人への手紙の著者によれば、成熟に到るために理解しておかなければならないさらに三つの基礎的な教えがありました。C祝福、癒し、聖霊のバプテスマ、任命のための按手 D死人の復活 E永遠の裁き、です。今月は、基礎的な教えの四番目の「手を置く儀式」、「按手」について学ぶことにします。
   「按手」には通常、祈り、もしくは預言、あるいは両方が伴われましたが、その例をまずへブル語(旧約)聖書から見て行きましょう。イスラエルの族長ヤコブ(イスラエル)が、エジプトの地で息子ヨセフに生まれた二人の子、すなわち孫を自分の世継ぎとみなすと約束したとき、右手を自分の左手に座っていたエフライムの頭の上に、左手を自分の右手に座っていた長子マナセの頭の上にと、意図的に腕を交差して置き、二人を祝福したことが創世記48:13−20に記されています。このとき、イスラエルはヨセフの懸念をよそに、神の導き通りに、右手を弟エフライムの上に置いて、弟が兄よりも「大きくなり、その子孫は国々を満たすほど多くなるであろう」と、より大きな祝福を預言したのでした。この出来事は、頭に手を置く儀式が祝福を伝授する公認の儀式であり、右手を通してより大きな祝福が伝えられたことを語っています。時隔たって、ヨシュアがモーセの後継者として召名を受けたときも、主がモーセに命ぜられたのは、ヨシュアに手を置き、任命し、権威を伝授することでした(民数記27:18−23)。神の牧者として羊、すなわち、神の民を率先して導くに相応しい器として、すでに「神の霊の宿ってい(た)」ヌンの子ヨシュアは、モーセの按手によってますます「知恵の霊に満たされ」、イスラエルの民を約束の地カナンに導くという重要な役割りを達成したのでした(申命記34:9)。
   このように手を置く儀式には、前任者の霊的遺産を後継者に受け継がせ、神が立てられた指導者であることを正式に公認するという、後継者のミニストリーの門出を画する重要な意味がありました。へブル語聖書の中のもうひとつの興味深い例は、おそらく九十歳近くの高齢に達し、臨終の床に伏していた預言者エリシャが、当時のイスラエル王ヨアシュに預言を告げたとき、自分の手を王の手の上に載せた行為です。「イスラエルの戦車と騎兵たち」とエリシャに呼びかけ、イスラエルの軍隊よりも何よりもエリシャの存在そのものに力を得ていた王ヨアシュは、大預言者の病床を絶望的な気持ちで見舞います。意気消沈した王にエリシャは預言的行為の実践を促します(列王記下13:14−19)。『窓から東に向けて矢を射る』という行為は、ヨアシュが立ち向かわなければならなかったアラム(シリヤ)との戦いの勝利を象徴するものでした。神がヨアシュをイスラエルを敵から解放する指導者として指名し、祝福されることを知っていたエリシャは、すでに肉体が衰えて、預言的行為が出来ない自分に代わって、ヨアシュにその行為をするよう命じたのです。自分の手をヨアシュに置くことによって、ヨアシュに神の祝福、知恵、権威が伝授され、民の指導者としての神からの任命が明確にされたのでした。「主の勝利の矢。アラムに対する勝利の矢」と、エリシャが臨終の床から声を振り絞って預言的に宣言したにもかかわらず、しかし、ヨアシュは三回で地面に矢を射ることを止めてしまったのでした。エリシャはヨアシュの不徹底な預言的行為に象徴された不信仰を嘆き、怒ったのでしたが、一度神の任命を受けた者の預言的行為はまさにその通り、不徹底な軍事行動の予兆となり、実際、ヨアシュの時代には、アラムを完全には絶ち滅ぼすことはできなかったのでした。
   新約聖書には、按手の例証はたくさんあります。まず、冒頭に引用したイエスの大宣教命令にもあるように、癒しのための按手です。ユダヤ教の会堂管理者ヤイロは「おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください」と、イエスに一生懸命願い、信仰によって死んだ娘が蘇生するという奇蹟を目の当たりにしたのでした(マルコ5:22−42)。同様に、デカポリス地方、ベッサイダ、カペナウムにて、またエルサレムへの途上の町々村々で、イエスは「ひとりひとりに手を置いて、いやされた」のでした(マルコ7:32、8:23、ルカ4:40,13:13)。使徒行伝には、キリストの証し人迫害の旅の途上、突然の神の御介入で一時的に視力を失ったタルソ人サウロが、主イエスに遣わされたアナニヤという弟子の按手によって再び視力を取り戻したこと、キリスト迫害者から一転してキリストのしもべに回心したパウロが晩年、マルタ島で、熱病と下痢で病床に伏していた島の首長の父親を按手によって癒したことが記されています(使徒行伝9:17、28:8)。
   イエスの異父兄弟ヤコブは、「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によってオリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます...義人の祈りは働くと、大きな力があります」(ヤコブ5:14−16.下線付加)と、病気の『主に在る兄弟姉妹たち』のために、油を注いで癒しの祈りをすることを勧めていますが、按手と油注ぎは別々にも、また同時にも癒しに伴われたのでした。聖書では、油は聖霊の象徴であることから、油注ぎ、あるいは油を塗るという行為は、油自体にある癒しの効果を期待してというのでは決してなく、パウロが、「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです」(ローマ人8:11.下線付加)と説いたように、内住の聖霊による癒しの信仰表明の象徴的行為ということになります。したがって、ヤコブの奨励は、キリストを受け入れた者が病からの解放を求めるとき、優先順位がこの世の手段ではなく、まず主に拠り頼むことである一方で、成熟したキリストの証し人は、そのような『主を信じる者の群れ』の癒しの必要に応じることが出来るように、正しい信仰姿勢で備えておく必要があることを示唆しているようです。しかし冒頭に引用したように、主が大宣教を命ぜられたマルコの文脈では、癒しの対象は福音をまだ受け入れていない求道中の人たち、あるいは、信仰に入ったばかりの人たちのようです。福音宣教に神の業が必ず伴われたということは、イエスの名による除霊、異言、奇蹟、癒しといった「しるし」が、キリストの証し人が語る福音が、神の真理であることの証しとして、また、福音宣教が神の権威の下で行なわれていることの証しとして伴われるものであったということを物語っているのです。イエスの存命中からすでに、宣教に遣わされた十二人の弟子たちはなるほど、「悔い改めを説き広め、悪霊を多く追い出し、大ぜいの病人に油を塗っていやした」のでした(マルコ6:12−13.下線付加)。
   次に、使徒行伝には、人々が聖霊のバプテスマを受けた五つの例が記録されていますが、そのうち三例は按手によるものでした(8:14−20、9:10−19、19:1−6)。先に触れたように、パウロがダマスコ途上で突然天からの光に照らされ、失明したとき、パウロの目が霊肉ともに開かれるようになるため (「再び見えるようになり、聖霊に満たされるため」)、神は無名の信徒を遣わされました。この神がパウロに按手するために送られた「アナニヤ」がごく普通のキリストの弟子、証し人であったということは、イエスの大宣教命令がすべての成熟した証し人に向けられたものであること、信じて御言葉を宣べ伝える者にはだれにでも超自然的な神の業が伴うことを裏付けています。
   また聖霊の賜物を分与するためにも按手がなされました。パウロが、「信仰によるわが子」(第一テモテ1:2)と呼んだ弟子テモテの例から、預言によってテモテに与えられることが示された霊の賜物が、実際に按手によって授与されたことにより「燃え立たせ(られた)」(第一テモテ4:14、第二テモテ1:6)ということが分かります。言い換えれば、啓示されたテモテへの神の御旨が、パウロや長老たちの按手によって、効果的に実践されることになったのでした(第一テモテ1:18)。按手は、テモテが「信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くため」、必要な賜物の分与に与るための重要なステップだったのです。同様に、信仰の戦いを勝ち抜こうと、「血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に」(エペソ人6:12)に対抗しているキリストの証し人には、神が与えられたミニストリーを遂行するため、聖霊の賜物の授与が不可欠になるのです。
   さらに、按手は使徒を送り出す、任命の目的でも行なわれました(使徒行伝13:1−4)。「使徒」とは「送り出された者」という意味ですが、使徒行伝13章で、教師、預言者と呼ばれていたサウロとバルナバがアンテオケ教会から送り出された後、使徒と呼ばれていることから、また、二人ともイエスが地上でミニストリーをしておられたときには、弟子でも使徒でもなかったことから、主の特別なご用を遂行するため主に選ばれ、聖別され、送り出された者はだれでも使徒であると定義することが出来るのです。またパウロ、シルワノ、テモテの三人が「キリストの使徒たちとして権威を主張することもできた」(第一テサロニケ2:6)という記述から、使徒職がイエスに直接指名された最初の十二弟子だけに適用されたわけではないことは明らかです。新約聖書には「使徒」と呼ばれた人たちが二十人以上登場しているそうですが、今日よく耳にする英語の「ミッショナリー(宣教者、伝道者)」の語源も「送られる者」という意味であることから、両者は今でこそ随分違った意味で用いられているようですが、もともと同じ意味であったのです。神の選びの指導者を公に任命するという目的で行なわれたこの類の按手には、旧約時代の祝福の按手と多分に共通点があるようです。
   ちなみに、聖書を詳細に調べた聖書教師らによると、今日教会で、「主教、司教」、「監督」、「長老」というように分けられている職務は、実際には互いに言い換えて呼ぶことのできる同じ一つの職(ギリシャ語のエピスコポスに由来;使徒行伝20:17、20:28、ピリピ人1:1、第一テモテ3:2、テトス1:7、第一ペテロ5:2、etc)であり、一言で言えば、聖書には教会の管理職として「長老」、「執事(助祭)」以外は記されていないということです。「長老」が、御言葉を教え、霊的方向性と指示を与え、教会を導く一方、語源がしもべに由来する「執事」は、会衆の物質的必要に携わる職務でした(第一テモテ5:17、使徒行伝6:2−3)。使徒たちが「長老」の任命に関し、按手をしたという記述はありませんが、「執事」を任命したときに按手していることから(使徒行伝6:3−6)、同様な儀式が行なわれたことは十分考えられることです。
   したがって、祝福、癒し、聖霊のバプテスマと聖霊の賜物の分与のための按手に加えて、任命のための按手は、個々のキリストの弟子、キリストの証し人が、聖霊の導きによりキリストの体のために奉仕すべく召名を受けたとき、それぞれ「使徒」、「長老」、「執事」として、公に認められ、役割を担っていくための知恵と権威とに与るための分与の儀式として行なわれたのでした。しかし、霊の領域に関わる按手は、単なる形式的な宗教儀式ではなく、授ける側も授けられる側も互いの霊に影響し合うので、汚れた霊からの守りと備えが必要で、「だれにでも軽々しく按手をしてはいけません。また、他人の罪にかかわりを持ってはいけません。自分を清く保ちなさい」(第一テモテ5:22)という警告を無視しては危険なのです。この危険は特に聖霊のバプテスマのための按手に顕著で、それだけに授ける側は事前の祈りと聖霊の導きを仰ぎ、自らを聖く保つことによって、悪霊が関与することがないよう安全弁を敷いておくことが不可欠なのです。

 

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