ULDAH MINISTRY

LETTER TO THE BROTHERS AND SISTERS IN CHRIST

わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。

イザヤ65:1

第110号  2004 年11月26日


   兄弟たち。わたしは今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは...あなたがたが受け入れ、またそれによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら...この福音によって救われるのです...私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また葬られたこと、また聖書に従って三日目によみがえられたこと...最後に...私にも、現れてくださいました...神の恵みによって、私は今の私になりました...ところで、キリストは死者の中から復活されたと宣べ伝えられているなら、どうして、あなたたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう...もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです...しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました...しかし、おのおのにその順番があります。まず、初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。それから終わりが来ます。                         コリント人への第一の手紙15:1〜24.    
   「キリストの証し人」として成熟に至るために理解しておかなければならない基礎的な教えの五つ目は「死人の復活」、六つ目は「永遠の裁き」(へブル人6:1−2)でした。すでに考察した最初の四つはこの世の領域、時を含めた四次元の世界に関わる教えでしたが、最後の二つは時とこの世の領域を超えた、永遠の世界に関わる教えです。今月は、神の住んでおられる領域、永遠の世に関わる「死者の復活」をまずへブル語聖書から考察します。「永遠の世」と言うとき、時間の制約の中でしか生きたことのない私たちは、時が拡張された果てしなく続く世というように、やはり時の概念を持ち込んで、「来るべき世」を描きがちですが、それはむしろ人が認識できる時空の外の、天地の創造者なる神の存在しておられる次元という意味で、実際にはすでに最初から存在しているのです。マタイは、「天の父の御国」(マタイ13:43、下線付加)と特記して天地、宇宙、人間史の始めから神の御住まいであるこの神の領域に言及しています。したがって、イエス・キリストが千年間という時の制約の中で支配されることになる地上に打ち立てられる「神の国(天の御国)」と「天の父の御国」とは神が支配されるという点では両者とも人間の造り上げた諸王国とは隔絶した性質の世界ですが、両者が厳密には違うことは明らかです。
   預言者ダニエルは、「年を経た方」、「その御国は永遠の国」(ダニエル7:9、:13、:27)と表現し神の永遠性を強調しました。神ご自身、モーセに名を尋ねられたとき、『わたしはある』、『わたしはあるという方』(出エジプト3:14)であると答えられましたが、やはり永久不変に存在しておられる神の永遠性の反映されたお名前でした。したがって天地の創造も人間の諸王国もキリスト支配の王国も、神の大きな無限の時空、次元の一部であり、それがゆえ、そのすべてに神の存在が反映されているのです。使徒ヨハネが第一の手紙の中で、「だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます」(4:15)、「イエスがキリスト(救い主)であると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです」(5:1)、「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません...神の御子の名を信じているあなたがた...永遠のいのちを持っている...」(5:12−13)と繰り返し語ったのは、イエスをキリストとして信じる者、「キリストに属している者」は、今この世に在っても、約束された「永遠のいのち」によってすでに無限の次元に生きているということでした。
   しかし、神の次元、信じる者たちの国籍「天の父の御国」の住人になるには、現在私たちに与えられている『滅びる肉の体』ではなく、栄光の『朽ちない霊の体』が必要なのです。それは、イエスが甦られた後四十日間、地上で弟子たちの前に姿を現わされたときに目撃されたと同じような「実質的な体」、有形でありながら同時に無形で、時空間、物質、重力に全く影響されず、上下左右あらゆる方向へ瞬時に、かつ意思のおもむくまま自由に移動できる超自然的な体なのです。この驚くべき体が与えられるには、肉から霊、有限から無限(永遠)の体への革命的変化である「死者の復活」が不可欠なのです。イエス・キリストは十字架上での死、埋葬の後、人類史上ただ一人甦られたことにより、キリストによる救いを信じる者への「永遠のいのち」の約束が、単なる仮想、根拠のない夢語りではなく、確約、確証であることを実証してくださったのでした。

We hope all the blessings and peace of this special Season
Will light up your life with Faith, Hope and Love.
Wherever and Whoever we are, JESUS CHRIST is God's Gift for us!
暗闇から光を切望する時節がまた巡ってきました。世の光、イエス・キリストは、
人類の救いのため手を差し伸べておられます。主、イエスを受け入れ、
信仰、希望、愛が、皆様の心に灯される時節となりますようお祈りいたします。


   では、人の朽ちる体が永遠に生きる体に変えられるために経なければならない復活について、聖書はどのように語っているのでしょうか。文頭に引用したコリント人への手紙の件(くだり)でパウロは、キリストが「聖書に従って」甦られたと記しています。当時の聖書といえばヘブル語(旧約)聖書ですから、旧約時代の神の御言葉の成就としてイエスは甦られたとパウロは言明したのでした。なるほど、ダビデを通して語られたキリストに関する預言の詩篇16:8−11、71:20−21には、(1)「多くの苦しみと悩み」に会わせられた「私」(ダビデの血筋のメシア)が、(2)「再び生き返らせ(られ)」、(3)「地の深み」(シェオール又はハデス)から引き上げられ、(4)「偉大さを増(され)」、「慰め(られる)」と、キリストが実際に体験され、私たちのために開いてくださった「いのちの道」がすでに記されていたのでした。
   また、神はアブラハムとアブラハムの子孫とに「カナンの全土」を永遠の「所有として与える」(創世記17:8、下線付加)と約束されましたが、アブラハムの肉体が滅びて四千年以上経つ今日、この御言葉はメシアだけでなくアブラハム自身も必ず甦ってカナンを所有する時が来るというこれから成就を見る預言として捉えることが出来るのです。救い主、メシアの復活が「初穂」であるなら、それに続く「第一の復活にあずかる者」(黙示録20:6、幸いな者、聖なる者)の一人としてアブラハムが数えられ、その時、すなわち、主の再臨の時、「たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国(神の国)で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます」(マタイ8:11、ルカ13:28−29)と約束されたイエスの御言葉が成就することは間違いないのです。イザヤもイザヤ書26:19で、ちりの中に埋もれた生気のない乾燥した種が、露が降り注がれることにより発芽し、生命を甦らせるように、聖霊(「あなたの露」「光の露」)の働きによって、主を信じて死んだ者たち(「あなたの死人」)の「なきがら」が甦ることを預言しましたが、パウロも「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです」(ローマ人8:11)と説いて、イエスに次ぐ信者の復活を確かなものとしたのでした。
   預言者ホセアも主に立ち返る者たち(複数)の復活を預言し、主の顕われが「冬の雨」(邦訳では「大雨」)と「春の雨」(「後の雨」)のように二度に分けて訪れる潤いであると告げています(ホセア6:1−3)。この雨に象徴される聖霊の注ぎは、甦られたキリストが父の御許に昇天された後下られた、キリストの御霊であられる聖霊が、ユダヤ暦シバンの月の六日、ペンテコステの日に父の約束を待ちわびていた弟子たちの上に注がれたことにより、その最初の注ぎに関しては預言通り成就したと言えるかもしれません。すなわち、まず、信じる者たちの聖霊による霊的新生の成就です。そこで二回目の注ぎが死者の体を甦らせる御霊の注ぎのことであるとすれば、それは主の再臨の時に起こる「キリストに属している者」たちの復活のことで、今日多くの「キリストの証し人たち」が待ち望んでいる、これから成就することになる預言ということになります。
このように、イザヤ、ホセアの預言が義人の復活に留まったのに対し、「ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに」(ダニエル12:3)と、ダニエルの預言は悪人の復活にも言及しています。ヨブも含めて、これら義人の復活を預言した信仰の先達たちは皆、自分自身も甦りに与るものとして含めており、復活信仰が旧約時代にも確かにあったことを裏付けています。したがって、「死者の復活」のうちでも義人の復活に関しては、旧約時代の信者たちにとっては約束の確証としてのメシアの甦りが長く待ち望まれて来たのでしたが、そのことが二千年前歴史的事実としてキリストによって成就された今日、新約時代に生きた、また生きている信者にとっては、今や「初穂」としてのキリストの甦りの事実に基づいて、それに続く信者の「第一の復活」に与りたいという期待、切望へとパラダイムが移っているのです。
   以上考察したように、聖書は肉体が滅びた後、霊や魂ではなく、体が甦ることをはっきり語っています。言い換えれば、聖書の語る復活は死者の体の復活ですが、人が創造されたとき、神が人を全く異質な二つの源から造られたことを思い起こすと、完璧な「永遠の体」が神を信じる者たち(使徒ヨハネの表現を借りるなら、神の子ども、義を行なう者、みことばを守っている者、兄弟を愛する者、神のみこころを行なう者、神の命令を守る者、御子を告白する者、神から生まれた者、キリストのうちにとどまる者、真理に属する者、愛のうちにいる者、イエスがキリストであると信じる者、愛のある者)に究極的に与えられることは、最初から神の御旨であったことに気づかされます。神は、「われわれに似る(全人格−霊・魂−に言及するヘブル語使用)ように、われわれのかたち(外形−肉の体−に言及するヘブル語使用)に、人を造ろう」と言われ、無形の目に見えない人格(霊・魂)の源を神(上)から吹き込まれ、有形の肉体の源を地(下)から取って、人を完全な「生きもの」とされたのでした(創世記1:26、2:7、下線付加)。それゆえ、神への反逆によって不死であったはずの人に死がもたらされるようになったとき、死ねば人の霊・魂は朽ちるべき土の器(肉体)から解放され、当初の源である神の御許(上)に帰り、肉体は地のちり(下)に戻ることがこの世での原則になったのでした。しかし、まさにパウロが「見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続く」(第二コリント4:18)と語ったように、神の御許に帰る無形の人格は不変、永久で、肉体が滅びた後も意識があり、個性を保って存続するのですが、肉体を失って不完全な状態になってしまうのです。人が神の似姿、最初の人類アダムとイブによる堕落以前の状態に戻されるには、神を源とする「永遠の体」で個々の人格が覆われる以外にないのです。したがって、「死者の復活」は、義人にとって永遠に神と共なるために不可欠であるだけでなく、世の終わりの裁きの後に、「永遠に昼も夜も苦しみを受ける」「火と硫黄との池」に投げ込まれると預言されている邪悪な者たちにとっても不可欠なのです(黙示録20:10−15)。なぜなら、聖書の語る地獄(ゲヘナ)は霊・魂ではなく、体が苦しみにさいなまされる場所で、本来、サタンを含めた反逆の堕天使ども、不死の天界の被造物のために設けられる場所なのですから。

 

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