ULDAH MINISTRY

LETTER TO THE BROTHERS AND SISTERS IN CHRIST

わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。

イザヤ65:1

第111号  2004 年12月31日


   しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。「彼は万物をその足の下に従わせた。」からです。ところで、万物が従わせられた、と言うとき、万物を従わせたその方がそれに含められていないことは明らかです。しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです... もし、死者の復活がないのなら、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。」ということになるのです。思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ良い習慣がそこなわれます。目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。神についての正しい知識を持っていない人たちがいます。                 コリント人への手紙 第一 15:23〜34.                      
   「キリストの証し人」として成熟に至るために理解しておかなければならない基礎的な教えの五つ目は「死者の復活」です。イエス・キリストが初穂として甦られたことによって信じる者の確証となったこの約束は、義人の復活、あるいは、キリストに属する者の「第一の復活」として聖書の至るところに記されていますが、同時に、目的を異にする悪人の復活、あるいは、全人類の復活も聖書は語っていることを先月考察しました。今月は時期を隔てて起こるこれら「死者の復活」をさらに考察します。キリスト支配の地上にもたらされる「神の国(天のみくに御国)」は、キリストに属する者の「第一の復活」で始まり、ある一定の期間(千年)の後、キリストがサタンの支配、権威、権力を完全に天地から撲滅され、御国を父なる神に返されることによって、永遠の「天の父の御国」へと合流して行きます。この時、天地創造以来この世に生を与えられ死んで地のちりに戻った全人類の復活が起こり、甦った者たちは神の裁きを経て、究極的な目的地へと、すなわち、「天の父の御国」か「火と硫黄との池(ゲヘナ、地獄)」かに振り分けられます。
   文頭に引用したパウロの教えから明らかなように、「キリストに属している者」の甦りは、キリストの『パルージア』(「傍らにいること」を意味するギリシャ語で、待ちこがれている者たちのいる所へ王、主権者が到着したとき用いられたもので、新約聖書では「再臨」を顕わす用語の一つです)の時起こりますが、パウロは所有を意味する表現を用いることによって、主の再臨の時、甦る者が「主よ、主よ」(マタイ7:21)と信仰表明するすべてのクリスチャンではないことを注意深く告げています。「わたしは良い牧者です。わたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています」(ヨハネ10:14)と言われたキリストは、だれがご自分に属する者であるかをご存知ですし、主を愛する者も自分の純粋な動機、思い、気持ちを自分が一番よく知っていますから、聖書が語る意味ですでにキリストにしっかりつながっていると確信のある者は、この表現に当惑することは何もありません。しかし本当に自分は「キリストに属している者」なのだろうかと首をかしげるクリスチャンは多いものです。「あなたがた(キリストの真の証し人)を殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。彼らがこういうことを行なうのは、父をもわたしをも知らないからです」(ヨハネ16:2−3)とイエスが預言されたように、真理と後に加えられた人間の教えとが混同され、真偽、善悪の判断が困難になる時代における絶対基準として、聖書は人々が独善に陥らないように、私たちの側でも正しい備えが出来るように、守るべき不変の尺度を与えています。パウロは「人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです」(コリント第一8:3)と、神を愛することが神に受け入れられることであると教えましたが、キリストの最愛の弟子ヨハネは、神との交わりがあると主張する者の真偽が、神が源である「愛」によって明白になると繰り返し語っています。キリストは「父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛しました。私の愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです」(ヨハネ15:9−10)と語られ、ヨハネは、「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません」(ヨハネ第一2:6)、「互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています」(ヨハネ第一4:7)と説き明かしました。そして詰まるところ、「神を愛するとは、神のご命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません」(ヨハネ第一5:3)に集約されるのです。キリストのご命令、戒めの実践が、自分の主張していることの裏づけ、証しになるのです。パウロは愛弟子テモテへの手紙の中で、主が「ご自分に属する者」とされ、まだ成就していない預言「第一の復活」に与ることの出来る者とは、「不義を離れ」自らを聖く保っている者であること、そのような者たちの上にのみ、神の「銘が刻まれ」「神の不動の礎(が)堅く置かれ(る)」と語っています(テモテ第二2:18−26)。したがって、それ以外の者たちがその他大勢の復活、全人類の復活に与る者たちで、彼らの甦りはキリストの千年支配の後起こることになります。
   主の再臨に関する約束は、主の初臨(人間としてのご降誕)に関する約束の五倍近くも聖書に記されているそうですが、このことは、聖書の預言の眼目がイエス・キリストの再臨に向けられていることを物語っています。それほど聖書が重点を置いている再臨ですが、残念ながら、物理的現象として起こると聖書が預言している再臨を否定し、心象現象に付してしまっているクリスチャンも少なくないようです。
   それではキリストの再臨はなぜ起こらなければならないのでしょうか?キリストは、(1)聖書で「花嫁」と呼ばれている『キリストの真の証し人』をご自分のものとするため、また、ご自分のみ許に迎えるため、長らく待ち望まれていたキリストご自身の婚姻のため戻って来られます。この小羊の婚姻は、キリストが三十台半ば過ぎまで独身を保たれ父のみ許に帰られたのはこの大きな目的があったからといえるほどの、天地をあげての大祝宴になるでしょう。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである」(黙示録19:6−8)。(2)ダビデの血筋のユダヤ人の油注がれた王、メシヤとしてユダヤ人の王国をエルサレムに樹立するため戻って来られます。預言者ゼカリヤは、国を挙げてのイスラエルの悔い改め−神への立ち返りとメシヤの受け入れ−が一日の内に起こると、驚くべき預言をしています(ゼカリヤ14:1−9)。この地上にもたらされるキリスト千年支配の「神の国」とは紛れもなく、最後まで天地の創造者なるイスラエルの神を信じ続けたユダヤ人たちがついにイエスを彼らのメシヤとして受け入れ、『キリストの証し人』となって世界宣教に乗り出す時代です。イザヤ、エレミヤはじめ旧約の預言者たちが待ち望んできた「神の証し人」としてのユダヤ人の霊的、物質的繁栄が世界中を神の祝福の中へと導き入れる素晴らしい時代の訪れとなります。誘惑する者、危害を加える者がいなくなるので、人は平安の内に長寿を全うします(ローマ人11:26−27、イザヤ59:20−21,27:9、65:19−25、ゼカリヤ8:22−23)。(3)神が人類を創造されて以来、人間をだまし、たぶらかし、神への従順を妨害してきたサタンが、サタンに加担した邪悪な者どもと一緒に天地から一掃されます。反キリストと偽預言者は直接「硫黄の燃えている火の池に生きたままで投げ込まれ」(黙示録19:20)、サタンは「縛(られ)、底知れぬ所に投げ込(まれ)、...千年の終わるまで...諸国の民を惑わすことのないように」(黙示録20:2−3)、鎖で地下牢に拘束されます(テサロニケ第二2:3−8)。(4)諸国民を裁くために戻ってこられます。裁きの基準は、諸国民の、キリストの兄弟である神の民ユダヤ人と、おそらく『キリストの証し人』に対する処遇の如何に置かれるでしょう(マタイ25:31−46、12:49−50、へブル人2:11−12、ヨエル3:1−2)。
   この時代を画する壮大な出来事は、主が「号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちにご自身天から下ってこられ(る)」(テサロニケ第一4:16、下線付加)ことによって、すなわち、全世界に知れ渡るすさまじい大音響と共に繰り広げられるでしょうから、その時生きている者で主の再臨の出来事を見損なったり、聞き損ったりする者はだれもいないでしょう。一瞬のうちに、しかし順序通りに、「キリストにある死者が、まず初めによみがえり」次にその時まだ生きている『キリストの真の証し人』が死を体験しないうちにいきなり甦りの体に変えられ、「雲の中に一挙に引き上げられ(携挙)...いつまでも主とともにいることにな(る)」という想像を絶する情景が、唖然として立ち尽くすこの世の人たちの眼前に繰り広げられることになるのです。『引き上げられる(携挙)』と訳されたギリシャ語は「つかみ取られる」という意味のラテン語動詞に由来するもので、盗人の荒々しく迅速な一瞬のうちの行為を印象付ける言葉です(ルカ12:39−40)。この時数え切れないほど多くの人たちが「雲の中」に携挙され、ここで用いられているギリシャ語から、比較的地に近い低空で再臨の主と合流することになるのですが、「キリストに属している者」にこのことは起こるのです。
   聖書は、キリスト支配の神の国が始まる前に、おそらく例外として、その他の形で甦る者たちのことを二つ記しています。まず、マタイの福音書だけがキリストの甦りの直後に「眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返(り)...イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都にはいって多くの人に現れた」(27:52−52)ことを記しています。これら生き返った者たちが再び死んだという記録がないことから、おそらくこれらの聖徒たちは、「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」(ヨハネ12:24)と言われたイエスの御言葉の成就の始まりを画し、初穂のイエスの直後に甦り、新しい霊の体でイエスとともにすでに昇天した者たちのグループと考えられるかもしれません。マタイの記述によればエルサレム中を震撼させる出来事には至らなかったようなので、旧約時代の聖徒たちの全部ではない、しかし多くの、おそらく無名の者たちの甦りだったといえるかもしれません。後に聖霊降臨が起こったペンテコステの日のメッセージの中で、ペテロはまだ墓に眠っているダビデのことに言及していますから、へブル語聖書に名を連ねている聖徒たちの甦りはキリストの再臨の時となるでしょう。例外の二つ目は、大艱難期にエルサレムで三年半の間力強く預言した後、反キリストによって殺害されるキリストの「ふたりの証人」の三日半後の甦りです。さらしものにされた彼らの死体に「神から出たいのちの息」が入ると二人は甦り、復活の体が与えられ、昇天し、主のみ許に召されることが預言されています(黙示録11:3−12)。パトモス島でキリストの啓示を受けたヨハネは、このようにキリストご自身の復活後、再臨(真の信者の復活)の時までに甦る者たちをすべて、「幸いな者、聖なる者」とし、この間に起こるこれらの者たちの復活を「第一の復活」と呼んだことが分かります(黙示録20:4−6)。
   さて、キリストの千年支配の最後に地下牢に閉じ込められていたサタンが解放され、再度、神とキリストの権威に挑戦する機会が与えられます。サタンは「ゴグとマゴグ」に象徴される異邦人諸国に謀反を呼びかけ、キリストの下で千年間の祝福、繁栄を味わいながらも心底で不平不満を抱いていた反抗分子を召集し、共にエルサレムに攻め上りますが、神は直ちに御介入され、天からの火で反逆する者すべてを焼き尽くされます。同時に天地が崩壊しすべてが神のみ前から離散して行くこの時点で、まだ甦りの体を与えられていなかった者は全員甦らされ、この世にあって、体で善悪の行為をした人間は、やはり体で神の裁きの座に立たされることになります。ヨハネは、生前神とは無縁に生きたこれらの人々を甦り後も霊的に死んだ者、「死んだ人々」(黙示録20:12)と呼んでいますが、これが「そのほかの死者の」復活です。

 

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