ULDAH MINISTRY

LETTER TO THE BROTHERS AND SISTERS IN CHRIST

わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。

イザヤ65:1

第112号  2005 年1月28日


   人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』それから...左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず...泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたがたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。                      マタイ 25:31〜46.                          
   西暦2005年の霊的展望を方向付けるかのように、かつてない世界的大震災がインドネシアを中心とする一帯に昨年暮れ、12月26日に起こり、全世界が震撼させられました。スマトラ沖を震源地とする震度9.1の大地震は想像を絶するエネルギーを擁する津波を引き起こし、インドネシア、アチェ州の海岸から、ベンガル湾、インド洋の諸島国、タイ、スリランカ、インド、ミャンマー、マレーシアの海岸線を矢継ぎ早に襲い、七時間後には5700q離れたアフリカ大陸のソマリアの海岸をも襲ったのでした。十二ヶ国を巻き込み、四十四ヶ国からの観光客を含む十六万人に至る死者を出し、五百万にも及ぶ人々から、所有地、住居、所有物、家族、親戚、友人、仕事、健康と、文字通りすべてを一瞬の内に奪い、クリスマス明けの日曜日を地獄の様と化したのです。過去五年間に全世界で起きたすべての地震のエネルギーを加算したより大きなエネルギーを一瞬の内に爆発させた今回の大地震、津波は、十年かかっても果たして復興できるかどうか目途が立たないほどの爪あとを残し、被災地帯の海岸線を一変させるような地理学的変化をもたらし、実際、地軸をも揺るがしたのではないかと報道されました(情報源:英国タイムズ紙)。
   地軸の移動といえば、八人を除いて当時の全人類を一掃した「ノアの大洪水」の大きな要因であったのではないかと考えられていますが、全地が水面下に消滅するほどの大災害は過去一回きりであったとはいえ、大なり小なり、地軸の傾きは過去に何回か起こったと言われています。聖書にも、南王国ユダのヒゼキヤ王の時代に、「アハズの日時計におりた時計の影」が「十度あとに戻(った)」出来事が記されていますが(イザヤ38:8)、この時の異変が地軸を十度傾かせるような地球規模のもであったと裏づける証拠、情報は世界的に残されているようです。ヒゼキヤ王の年代記から、王の死が即位最後の年687BCEであったとすれば、「十五年の延命」が預言者イザヤによって王に告げられたのはさかのぼって703BCEのことで、したがって、「しるし」として神が起こされた地軸の移動はこの間に起こったことになります。アッシリヤの年代記によれば、その頃エジプト侵略に遠征したアッシリヤ王セナケリブの軍隊が気象異変で突然降ってきた隕石雨で全滅したとされているそうですが、イザヤ書は、エルサレムを包囲したアッシリヤ軍十八万五千人が一晩のうちに死体と化した奇蹟を記しています(37:36)。ギリシャの歴史家ヘロドトスはこの軍隊の突然死の要因を腺ペストによる伝染病としましたが、「エルサレムあわや陥落」という国を挙げての非常事態に、イザヤ、ヒゼキヤ、エルサレムの住民の心を合わせた真摯な祈りを神が聞かれ、ご介入されたことは疑いの余地もありません。このように自然災害は神の業として、神の時が満ちたとき突然降りかかったことを聖書は証ししています。エルサレム包囲が701BCEで、このユダの、武器を取らず強敵を敗退させるという奇蹟的な出来事に続いて起こった「セナケリブ暗殺」の預言の成就が681BCEであることから、687BCEに隕石雨が降り、地軸が傾くような天変地異が起こったことは十分考えられることです。興味深いことに、同じ年、インド、中国大陸、日本でも異変が起こったことが確かめられているようです。実際、2700年前に地軸を揺るがすような異変が起こったことを物語る重要な証拠は、現在の方位とは十度ずれた南北線、東西線の描かれている『イブン・ベンザ−ラ地図』に見られるそうです(「世界超古代文明の謎」日本文芸社)。神の人類へのご介入、奇蹟、預言を信じない「あざける者ども」に、ペテロがかつての世界文明が洪水によって一瞬の内に滅びたことを思い起こさせ、主の再臨の預言も必ず成就すると警告しましたが(第二ペテロ3章)、昨今の考古学的科学的発見は聖書を立証しているのです。
   今回のような多くの尊い人命を一瞬の内に奪った大災害は、神の家族の一員として人を創造された「愛の神」のイメージとは程遠い、情け容赦のない恐ろしい「裁きの神」を印象付けるため、「憐れみの神がなぜ?」と、理解に苦しむ方が多いのではないかと思います。しかし、もし神がこのような災いを通して語られるのであれば―聖書は一貫してその視点から人間史を描いています―今回の悲劇から神の警告を悟り、学ぶことができるはずです。
   まず、地震、津波、山火事、山崩れ、嵐、洪水、火山爆発、旱魃といった自然災害は、これまでにも幾度となく人間を悲劇のどん底へ陥れてきましたが、今回の惨事がこれまでのと画然と区別される点があります。全世界に影響を及ぼした規模の大きさと、死傷者、被災者の圧倒的な数です。神が警告として災害を起こされるとき、家屋、財産、持ち物を打たれても人の命は極力守られるという原則が預言書から読み取れますが、なるほど、時間、タイミングが少しでもずれていたら、また、震源地、被災地が少しでもずれていたら最悪になっていただろうと背筋がぞっとするような惨事は過去、私たちの近辺でも何度か起こってきたのでした。もちろん、今回の惨事にあっても、間一髪のところで、奇蹟的な生還を遂げた人々、救出された人々のニュースが報道されましたが、日を経る毎に更新された死亡者数の多さは異例なことです。聖書は、神の警告を無視し続け、悔い改めないなら、警告が裁きに変わるときが来ることを預言しています。したがって、今回の大惨事はその予兆として捉えることができるのではないでしょうか。イザヤは反逆のイスラエルに、「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」(55:6−7、下線付加)と、悔い改めを迫り、自分中心の道から離れるようにと呼びかけました。エレミヤも同様に、「耳を傾けて聞け。高ぶるな...あなたがたの神、主に、栄光を帰せよ。まだ主が、やみを送らないうちに、まだあなたがたがの足が、暗い山でつまづかないうちに。そのとき、あなたがたが光を待ち望んでも、主はそれを死の陰に変え、暗闇とされる。」(13:15−16、下線付加)と、エルサレムの全住民の滅亡を宣告された神と民との間に立って、執り成しをしたのでしたが、指導者の頑なな姿勢は変わらず、ついに裁きはエレミヤの在世中、エルサレムに下ったのでした。エゼキエルも神の御旨が人の命を奪うことではなく、生かすことであると、しかし、悔い改めて神に立ち返らなければ、神が宣告されたことは必ず成就すると告げました。「私は悪者の死を喜ぶだろうか...彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか...あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ...新しい心と新しい霊を得よ...なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ...だから、悔い改めて、生きよ。」(18:23、:30−32)。預言者たちの執り成しも禁じられ、煮詰まった神の義なる怒りが下るときは、「正しい者も悪者も」ともに立ち滅ぼされる裁きの時です。神の裁きの宣告は、586BCE、7月18日、エルサレム陥落、605〜586BCEにかけて三回に亘るユダの民のバビロン捕囚により成就したのでした。
   聖書が語るこの原則は不変で、どの時代にも応用できます。義なる神は、「自己中心、無慈悲、不義、よこしま、貪欲のゆえに創造の秩序を踏みにじり、ゆがめる者たち」を裁かれます。国の指導者たちが邪悪な者であれば。その体制下で犠牲になるのは民、特に、弱者、貧者、病者、難民であることは言うまでもありませんが、しかし、必ずしも富者、指導者だけが邪悪で、体制の犠牲者たちが善なる者というわけではありません。エレミヤは「預言者は偽りの預言をし、祭司は自分かってに治め、わたしの民はそれを愛している。」(5:31、下線付加)と神の言葉を取り次ぎ、国の指導者から社会の下層の者に至るまで、すべてが同じように罪を犯していることを指摘しました。残念ながら「人の心は何よりも陰険で、それは治らない」ということは、貧富、貴賎、大小、強弱、賢愚等、『この世の衣』とは全く無縁に、人の本質のようです。今回、神が支配される自然の脅威をいやというほど見せつけられたその直後にも、他人の不幸につけ込んだ心無い者たちの暗躍が報道されました。富者の居住地、別荘地だったスマトラ島北端のバンダアチェに掠奪する者たちが横行し、略奪中に崩れてきた家屋の下敷きになった者が、洪水からの奇蹟の生還者として絶望に陥っていた人たちに希望の光を投げかけたという何とも皮肉なパプニング、一夜にして孤児になった子どもたちが早くも密輸業者に狙われ行方不明、犠牲になったこと、被災地での海外の観光客の死亡が報道されるや、犠牲者の留守宅が盗難の標的になったことが報道されたのでした。チャンスが与えられると、羊のなりが「貪欲な狼」に様変わりする人間の醜い本質は、まさに、イエスのたとえ『無慈悲なしもべ』(マタイ18:21−35)の中でさらけ出されたものでした。英国でイスラム教の指導者が「この地震は観光地で重ねられてきた『忌むべき行為』に対するアラーの神の懲らしめである」と発言し、非難を浴びる一幕がありました。被災地となった観光地が、麻薬や武器の密輸、売春、性犯罪、子女虐待、密売等に加え、過度な飲酒消費高に裏付けられる『忌むべき行為』の温床になっていることをあばき、「犠牲者は当然の懲らしめを受けたのである」という爆発宣言だったのですが、年端もいかない少女たちの売春がこの地帯で観光産業になっていることは歴然とした事実なのです。無神論、唯物論の域を出なかった釈迦の思想からさらに、自分本位の独善的思考に陥ってしまった『小乗仏教』徒のシンハラ族とタミール族との間の民族紛争で国家が分裂しているスリランカ、同様に内紛の絶えないインド、インドネシア、国家の独裁体制下で貧困にあえいでいるソマリア、また、観光産業に依存している東南アジアの発展途上諸国という被災国の国情を見ると、虐げられていた者たちの叫びが今回の神のご介入を招いたといえるかもしれません。
   次に、今回の災害で被害を受けたのがすべて発展途上国であったことに、悲劇の中にも神の計らいが見られるようです。被災国の公的債務を帳消し、あるいは、凍結する案が提唱され、また、被災の予想外の規模が明らかになるにつれ、先進国が競って支援金の約束額を増加していったことは、かつてない国際的関心を呼びました。なるほど、競争で善行をするという、その動機は不純であっても、貧者、弱者を助けるという行為には変わりないのですから、神は先進国、富者に神の御旨を実践するチャンスを与えられたということなのでしょう。冒頭に引用したイエスのたとえは、今わたしたちがするべきことを教えています。恐ろしい裁きの時が来る前に、今まだ善行を実践できる余裕の与えられているときに、主に喜んでもらえることを率先してする、そのような賢い振舞いへの奨励、警告と捉えるのが、一つの解釈です。

 

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