ULDAH MINISTRY

LETTER TO THE BROTHERS AND SISTERS IN CHRIST

わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。

イザヤ65:1

第55号  2000 年 4 月 30 日

先月号で、イスラエルの民がエジプトの隷属下から解放された出来事、出エジプトの時(1446BCE)、神が犠牲の子羊の血のしるしを通してイスラエルの民を救われたこと(隷属からの解放、すなわち、肉体の救い)、また、そのほぼ千五百年後、神は同じパタンで、十字架上で流された「神の小羊」、イエス・キリストの血潮によって、全人類に罪からの解放(魂、霊の救い、すなわち、現世を越えた永遠の救い)の道を開いてくださったことに触れました。血のしるしが重視されたのは、流血惨事が要求されたからではなく、血を流さずに契約は成立しないということにあったのです。神が契約のしるしとしてイスラエルの族長、大祖父、アブラハムに命ぜられたユダヤ人男子への割礼もその一つです。『契約の血』という用語は、しかしそれほど多くは用いられておらず、聖書では三ヶ所だけで、モーセ、ゼカリヤ、そして、イエス・キリストのメッセージの中に見られます。時を隔てて登場しているだけに、それだけ、神の一貫したご計画が背後に感じられ、意義深いと言えます。

  イエス.キリストの御降誕の480年ほど前、主は預言者ゼカリヤに神命を告げられました:シオンの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は、正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも雌ろばの子の子ろばに。この方は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る。あなたイスラエルについても、あなたとの契約の血によって、わたしはあなたの捕われ人ゼカリヤの時代では、バビロン捕囚に置かれていた者たちを、水のない穴当時、未使用時には牢獄として用いられた穀物保存用の穴から、解き放つ」(ゼカリヤ9:9〜11と。当時、ゼカリヤの預言の言葉を聞いていたユダの民の心のうちに鮮明に蘇ってきたのは、きっと、かつて神がシナイ山でモーセを通して示された解放の約束だったことでしょう。繰り返し繰り返し暗誦することによって神のメッセージを正確に、世代から世代へと口承してきたイスラエルの民に蘇ってきたのは、確かに、先祖が神への忠誠をモーセに誓ったくだりだったことでしょう。イスラエルの若者たちは、全焼のいけにえをささげ、また、和解のいけにえとして雄牛を主にささげた。モーセはその血の半分を取って、鉢に入れ、残りの半分を祭壇に注ぎかけた。……彼らは言った。『主の仰せられたことはみな行ない、聞き従います。』 そこで、モーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った。『見よ。これは、これらすべての言葉に関して、主があなたがたと結ばれる契約の血である。』」(出エジプト24:5〜8)。

  モーセの時代、「主の仰せられたことは、みな行ないます」と「声を一つにして」神への忠誠を誓った民に対し、神は、彼らの罪を無傷の子羊の血によって贖うと、約束されたのでした。ですから、ゼカリヤがこの「契約の血」に言及したとき、聴衆は間違いなく、その主の神命を解放の約束として受け留めたのでした。バビロン捕囚から故国に帰還後、エルサレム神殿は再建されたものの、依然としてペルシャ帝国の支配下にあり、城壁も壊れたまま、廃墟と化した都の中に住んでいた民にとって何と大きな慰め、励ましの言葉だったことでしょう。それから五百年余り経て、今度はローマ帝国の支配下で、相変わらず束縛、苦しみにあえいでいた民の、「主よ、約束の救い主を送って下さい! 私たちを束縛から解放してください!」という叫びに、神は、イエス・キリストを通してお答えになられたのでした。四百年余りもの間、イスラエルに預言は絶え、霊肉ともに暗黒状態にあった民に、待ちに待った救い主来臨が現実のこととなったのです。イスラエルを解放する『油注がれた王』、救い主が来られるとき、前もってその到来を告げる者として旧約時代の預言者、エリヤが来るという預言通り、洗礼者ヨハネが現れ、ユダヤ人たちはイエスこそイスラエルを贖う王、救い主であると信じたのでした。確かにイエスは、旧約の預言者を通して約束されてきたこと、救い主による神の国の支配が始まったことを告げられ、救い主にしかできないと信じられていた多くの驚くべき奇蹟、癒し、徐霊の業をなされたのでしたが、同時に彼らの思惑をはるかに超えた神の国のビジョン、すなわち、肉の解放だけでなく、罪からの解放とそれに伴う永遠のいのちに与かる道が、ご自分の死において成就するという人間の知恵では容易に理解できないことをも告げられたのでした。そのため、魂、霊の救いではなく、政治的にユダ王国を復興してくれるような王をと願っていたユダヤ人たちの期待は裏切られ、神冒涜の罪状でイエスは十字架刑に処せられることになります。しかし、弟子たちとの最後の晩餐の席で語られたメッセージの中で、イエスは、現実がどのように否定的であろうと、ご自分こそ、モーセ、ゼカリヤを通して語り継がれてきた神の解放の約束を究極的に成就する者であることを明らかにされたのでした:みな、この杯から飲みなさい。これはわたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」(マタイ16:27〜29、下線追加)

  この死によっていのちに与かる道が開かれるという逆説的な神の救いの奥義を、甦りの主イエスご自身との出会いという、唐突、劇的な体験を通して「迫害者」から「福音伝道者」へと瞬時に変えられたユダヤ教教師、パウロは、次のように説明しています:神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものよりも先に生まれた方です。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物をご自分と和解させてくださったからです。これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現わされた奥義なのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」(コロサイ人1:13〜27)。

  神が人間史の中に、どのように救い主による贖いのご計画を組み込まれて来られたかを、『契約の血』に象徴された解放の約束を例に取り上げてみましたが、せいぜい百年ぐらいの枠の中でしか物事を見通すことの出来ない人間には、軽く数世紀に亘る神のご計画のスケールを理解することはまず不可能でしょう。しかし、神のスケールの大きさがわかった今、少なくとも、ペテロが、終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、次のように言うでしょう。『キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。』しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐強くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」(第二ペテロ3:3〜9)と忠告したことの意味が、分かったのではないでしょうか。確かに、上述の最後の晩餐のメッセージの中でイエスが、「父の御国で飲むその日まで」と時を限定されたことから、主の再臨が単なる心内現象ではなく、物理的な現象、すなわち、信じる者にも、信じない者にも実際に目で見ることの出来る出来事であることは明らかです。今、神の約束の不変性とイエスを「」と信じる者たちに求められているのは、猜疑心を抱かせる声に耳を貸し、不信仰に陥るのではなく、主の再臨を真剣に待ち望み、「主よ、解放の約束を最終的に成就してください!」という絶えることのない祈りなのです。

 

 

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