ULDAH MINISTRY

LETTER TO THE BROTHERS AND SISTERS IN CHRIST

わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。

イザヤ65:1

第56号  2000 年 5 月 26 日


   日本の歴史には、『神風』によってと評されるような奇跡的な自然の助け、超自然的な介入によって外国勢による侵略を免れたと言う出来事が幾度もありましたが、イスラエルの歴史もまさにそのような現象によって織り成されてきたと言ってもよいほど、国家的危機に瀕する毎に神が介入して来られたのでした。
 モーセによる出エジプトの時、「一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた」(出エジプト 14:21)とあるように、紅海を二つに分け海中に道を設けられたのも、ヨシュア率いるイスラエルの民が約束の地、カナンに入った時、ヨルダン川上流の水が完全にせき止められたことにより、乾いた地を通って川を渡ることが出来た(ヨシュア3章)のも、堅固な城壁都市エリコを、イスラエルの民の「ときの声」によって一瞬のうちに城壁を壊し、陥れた(ヨシュア6章)のも、預言者イザヤの時代、アッシリヤ軍がエルサレムを包囲し、ついにユダ王国滅亡かという危機に直面したとき、敵軍の陣営に疫病が発生し、一晩のうちに全員死亡、かくしてユダが戦わずして勝利を収めることが出来た(イザヤ書36〜37章)のも、すべて神の人間史へのご介入による出来事でした。これらは比較的よく知られている超自然的な出来事のほんの一例ですが、神は異邦人の王を用いて、イスラエルの国家的、霊的危機に介入され、イスラエルを安泰、安住へと導かれるという手段もよく取って来られました。例えば、イスラエルの民がカナンの地に入る前に、「わたしは、わたしへの恐れをあなたの先に遣わし、あなたがそこにはいって行く民のすべてをかき乱し、あなたのすべての敵があなたに背を見せるようにしよう。わたしは、また、くまばち(訳によれば、『甲虫』)をあなたの先に遣わそう。これが、ヒビ人、カナン人、ヘテ人を、あなたの前から追い払おう」(出エジプト23:28)と、神はエジプト軍(エジプト軍の象徴は、甲虫、カブト虫でした)を前もってカナン征伐に送り、カナン人のうちに侵略者への恐れを植え付けておくことにより、イスラエルが戦わずに入植できる備えをして下さったのでした。また、「しかし、わたしは彼らを一年のうちに、あなたの前から追い払うのではない。土地が荒れ果て、野の獣が増して、あなたを害することのないためである。..徐々に彼らをあなたの前から追い払おう」(出エジプト23:29〜30、下線追加)とあるように、土地が激しい戦闘によって荒れ果て、耕作不能になることがないように徐々に敵を追い出すことにより、約束の地にイスラエルがすぐ安住できるよう配慮がなされたのでした。
    時を経て、預言者ハガイ、ゼカリヤの時代、神はペルシャ王クロスをユダ王国復興のため用いられます。クロスによってバビロンを滅ぼされた神は、イスラエルをバビロン捕囚からエルサレムへ帰還させ、神殿再建、城壁修復を可能ならしめ、ユダ王国復興にご介入されたのでした(イザヤ書44:28〜45:7、エズラ1:4)。さらに時が経って、アレキサンダー大王がマケドニヤから出立してペルシャ勢を打ち破った後、瞬く間にパレスチナ一帯を制覇して行ったとき、イスラエルも諸隣国と同じように完全にギリシャ勢の支配化に置かれるかと思われた国家的危機がありました。ゼカリヤ書九章は、隣接のハデラク、ダマスコ、ハマテ(今日のシリヤ)、ぺリシテ人の都、アシュケロン、ガザ、エクロン、アシュドデ(今日のガザ地区)が、次から次へと陥落して行く様子を驚くべき正確さで預言していますが、エルサレム攻撃に関しては、「わたしは、わたしの家(エルサレム、ユダ)のために、行き来する者を見張る衛所に立つ。それでもう、しいたげる者はそこを通らない。今、わたしがこの目で見ているからだ」(ゼカリヤ書9:8)と、主ご自身が民を守られると言う預言でした。この出来事に関しては、ユダヤ人の歴史家ヨセファスが感動的な記録を残しています。まず、ゼカリヤ書9:1〜7の預言と、アレキサンダー大王遠征の足取りとを比較した後、エルサレムの守りがどのようにして成就したのか、神の歴史へのご介入のし方の一例を取り上げてみたいと思います。
 333BCE、小アジアのイッソスの戦いでペルシャ軍を破り、パレスチナのシリア、ハデラクの地からエジプトに向けて南下を始めたアレキサンダーは、岩礁島上に難攻不落の都を築いていた誇り高き貿易都市ツロ攻略を思案します。かつて、バビロンのネブカデネザルが十八ヶ月の包囲の後、586BCE、エルサレムを陥落させて後、ツロ本土を攻めたことがありました。十三年かかってついにツロの城壁を崩して侵入した時、しかし都はもぬけの空でした。最期が近いと悟ったフェニキヤ人たちは、1.5マイル沖合いの自然の要塞、岩礁島に移動していたのでした。船を持っていなかったネブカデネザルは岩礁島を攻めることは出来ず、それ以上の攻撃は断念したのでした。島に移ったフェニキヤ人たちはそれ以降本土に戻ることはなかったため、ツロ本土は廃墟と化したままになっていました。さて、海から岩礁島を攻めることは至難と判断したアレキサンダーは、332BCE、兵士たちに瓦礫の山と化していた古代都市ツロの瓦礫という瓦礫を片っ端から海に投げ込む作業に取り掛からせます。この作業を経て本土から島に向けて土手道を築くことに成功したアレキサンダーは、七ヶ月後、ツロを陥れることが出来たのでした。本土と島とを連結したその土手道は何世紀かの間に、打ち寄せられる土砂と堆積物によって広げられ、猟師が網を広げ、繕い、洗い、干し、引くのに格好の場所となったのでした。ゼカリヤはそれを、「見よ。主はツロを占領し、その塁を打ち倒して海に入れる」(ゼカリヤ9:4)と預言し、エゼキエルは、「ツロは海の中の網を引く場所とする」(エゼキエル26:5、 :14)と預言したのでした。
 難攻不落と恐れられていたツロがあまりにもあっけなく陥落したのに驚き、おののいたぺリシテ人の町々は、続々と無条件降伏を願い出ます。ガザだけは抵抗しますが、二ヶ月の包囲後、やはり332BCE, 降伏したのでした。ギリシャ勢の占拠した町々では混血が進み、あるいは、町から逃げ出したぺリシテ人たちはユダの地に移り住むようになり、多くがユダヤ人となったのでした。それは丁度、ダビデがエルサレムに侵略しイスラエルの都とした時、原住民のエブス人がイスラエル、ユダの文化、宗教、慣習に同化し、イスラエル人となったのと同じような現象でした。このように、ギリシャ勢のパレスチナ制覇により、神は、古来神の民イスラエル、ユダの強敵で、絶えず流血騒ぎを引き起こし、威嚇して来たぺリシテを二度と立ち直れないように裁かれたのでした。ゼカリヤの預言は見事に成就したのです。
  さて、ぺリシテを攻めたアレキサンダーは、矛先をユダに向けます。当時のエルサレムはバビロン捕囚から戻ったユダヤ人たちが住んでおり、ネヘミヤの指導によって城壁は建て直されていたとはいうものの、住民に攻防能力はなく、都そのものも幹線道から逸れた所にある一地方都市でしかありませんでした。エジプトに向けて真っ直ぐ南下しないでわき道に入ってまで、そのように何の魅力もない、取るに足りないユダにアレキサンダーが向かったのには、理由がありました。ツロ攻撃のとき、ユダヤ人にアレキサンダーへの忠誠を誓い、糧食を送るようにと求めたところ、ユダヤ人が拒んだと言ういきさつがあり、アレキサンダーには、たてつく者に厳しい処置をすることにより、近隣諸国への見せしめにするという意図があったのでした。アレキサンダー来襲の知らせを受け、ユダの大祭司ヤデュアは非常な恐怖に取りつかれます。しかし主は夢の中で、大将軍アレキサンダーに会いに行くようにと語られます。そこでヤデュアは真紅と紫の衣と、宝石のはめ込まれた高雅なエポデを着、「主への聖なるもの」と刻まれた延べ金の板を取りつけたターバンを被り、他のすべての祭司たちは亜麻布の祭服を、民は全員白を身にまとって行軍してくるアレキサンダーの軍隊に向かって行進して行ったのでした。ちょうど彼らが丘の頂きに来た時、朝日が彼らの白い衣を眩いばかりに照らし出します。一瞬、ギリシャ軍は幻影でも見たのかとばかり、行軍を止めます。と、次の瞬間、思わぬことが起こったのでした。そのまま進み出てきたアレキサンダーは馬から降りるや、何と大祭司の前にひれ伏したのです。それを見た将軍パルメニオは駆け寄ってくるや、「何をしておられる?他の者が貴殿に頭を垂れることがあり得ようとも、まさか、貴殿が頭を垂れられようとは!」と抗議したのでした。するとアレキサンダーは答えます。「私がまだマケドニヤにいた時、如何にしてアジアを征服できるものかと思いあぐねていました。その時、ビジョンの中で私はまさにこの人、こういった衣を着た人を見たのです。彼は言いました。ペルシャ勢に対する支配権を私に授けようと。実際、すべての私の計画は成功するであろうと。しかし、それは私の才気、指導力、精力によるのではなく、神の寵愛によるのであると。この大祭司、このような衣を着て、胸にはエポデを付け、頭にターバンと『主への聖なるもの』と書いた延べ金の板を被った大祭司は、私を成功させてくださる神の代理人なのです。だから私は、頭を垂れるのです」と。
  こうしてアレキサンダーの軍隊はそこに野営し、アレキサンダーはエルサレム神殿で主に犠牲の捧げ物を奉献したのでした。その時、『一人のギリシャ人がペルシャ帝国を滅ぼす』という二百年以上も前に書かれたダニエルの預言の下り(ダニエル書2、7、8章)を示されたアレキサンダーは、その預言を成就する責任を認識したのでした。翌日、出立前に「何か所望のことがあれば言うがよい」と申し入れたアレキサンダーに、大祭司は、引き続きイスラエルの父祖たちの掟に従った生活が許されるように、また七年毎の貢ぎ物を免除して欲しい旨、願ったのでした。さらにバビロンとメディア在住のユダヤ人たちにも同じ特権が与えられるようにとの願いも聞き届けられ、そればかりか、アレキサンダーは、ユダヤ人でギリシャの軍隊に入隊する者には、ユダヤ人の慣習を守る許可を与えるとも約束したのでした。この驚くべき神のご介入があった日以来、この特権にあやかりたいとユダヤ人に成りすます者たちが相次いだと言います。エルサレムは、異邦人の王アレキサンダーへの、神の不思議なご介入によって誰も予想だにしなかった形で守られたのでした。
 聖書の預言には、よく似た、異なった時期に起こる二つ以上の出来事が重複して語られている例がたくさんありますが、このゼカリヤの預言もその一例です。「それでもう、しいたげる者はそこを通らない」(8節)の部分が成就するのはいつのことでしょう? 今日の一触即発のエルサレムの緊張状態はこの預言がまだ完全には成就していないことを示しています。まだ成就していない他の預言者たちの預言をも考慮すると、終末の時に、もう一度非常によく似た形で、少数の『エルサレムの残りの者たち』が奇跡的に災いから守られる出来事が起こるということが示唆されているようです。遠隔操作、制御が自由自在に出来る核の時代に在って、全エルサレムが巻き込まれるような災いが起こることは避けられないでしょうが、守りの約束があるということは、最後まで信仰を全うしようとする者には大きな慰め、希望になることでしょう。

 

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