ULDAH MINISTRY

LETTER TO THE BROTHERS AND SISTERS IN CHRIST

わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。

イザヤ65:1

第58号  2000 年 7 月 28 日


   5月25日付け中日新聞の中日春秋欄に興味深いコメントが載っていました。昨今は日本語のプロのはずのアナウンサーでも、「こういう時、選手は気持ち的にはどうなんですか」とか、「監督的にはつらいでしょうね」とか、「わたし的には、そう思います」というように、辞書に載っていないような言い方をする風潮が見られるが、文化庁の国語世論調査によると、そのような用例は十代の若者の間では四割を超えているという。同様に、「...さんと話とかしまして」、「お荷物のほう、お預かりします」という用例は若い世代で五割近く用いられている。また、若い女性の間に目立つのは、「...じゃないですか」という表現。新しい敬語の一種という人もいるように、聞き手の同意を得ながら話を運ぶやり方だと、コラムの執筆者は分析して、「では、なぜ相手の反応をうかがう言い回しや、ぼかすような表現が若者を中心に広がっているのか」と疑問を投げかけます。そのような、いずれも断定を避けるあいまいな表現が好んで用いられるのは、文化庁の分析によれば、「互いに傷つくことを恐れる若者気質の表れ」で、あやふやな言い方で相手と距離を置き、相手を傷つける断定表現を避けるのは、若者のやさしさ志向の表れではないかと、言葉遣いにうるさい年配者のコメントにしては、肯定的な何かほのぼのとした温情を漂わせてコラムは締めくくられていました。なるほど、「消防署のほうから来ました」という表現は、消火器を売りつける詐欺商法にとって、相手を信用させる格好の隠れ蓑かもしれないと思ったことでした。しかし、このようなあいまいな表現志向は、昨今の若い世代に始まったことではなく、あいまいな言葉の多い日本語の中に集約されている日本民族の特質と言えるのかもしれません。
  その最たる例は、外国人をしばしば困惑させる、「ノー」とはっきり言えない日本人の心性ではないでしょうか。日常生活で絶えず対人関係を気にしていると言われる日本人は、相手の感情を害することを恐れ、否定の中にも、常に幾ばくかの肯定の可能性を残すのを美徳と考えていると言います。同様に、肯定においても、否定の余地を必ず残すのが日本人の言語習慣と言いますから、厄介です。このようなはっきりしない日本人の表現法は、不可解、ずるいというイメージを外国人に与える原因になっているようです。しかし、相手の好感を得ることばかりに気が捕われ、いい加減な返答をして、その場はいい人に成りすまし、「イエス」と言っておきながら実行しないよりは、たとい相手につれないと思われようと、出来ないことは、「ノー」ときっぱり言い切る勇気、正確に自分の意志表示をする習慣が日れようと出来ないことは、「ノー」ときっぱり言いきる勇気、正確に自分の意志表示をする習慣が、日本人には必要なようです。もっとも、このようなあいまいさは結構、英国人の間でも見られるように思いますが、イエスのたとえの中でも取り上げられているように、人間の普遍的な気質のようです。  
  ところで、あなたがたは、どう思いますか。「ある人にふたりの息子がいた。その人は兄のところに来て、『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ。』と言った。兄は答えて『行きます。お父さん。』と言ったが、行かなかった。それから、弟のところに来て、同じように言った。ところが、弟は答えて『行きたくありません。』と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。」彼らは言った。「あとのものです。」 マタイ21:28〜31
  このたとえは、文脈、かつ、引き続くイエスご自身の説明に従えば、宗教的傲慢、自己満足に陥っていた宗教的指導者たちへの警告として語られたもので、イエスの教えを信じ、救い主として受け入れなければ、彼らが伝統的に守っている宗教的儀式をどんなに励行しても、神の国に入ることは出来ないことを悟らせることが意図されたのでした。独り善がりの宗教心を誇っていた宗教家たちではなく、神の掟に反する生活をしていた「取税人や遊女たち」の方が、むしろ、洗礼者ヨハネの『義の道』の教え、また、イエスの福音に耳を傾け、悔い改めて、イエスを救い主として受け入れたことにより、天の父なる神の御旨にかない、神の国に先に入ることになるという警告が、『実のない兄』と、『最後には心を変えて父の願い通りを行なった弟』とにたとえて語られたのでした。しかし同時に、このたとえの兄に象徴されている、他人の機嫌を取ることが優先して物事を安請け合いしてしまう実のない『ぶりっ子』が、神には受け入れられないことも警告されているようです。
  「なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や大皿の外側はきよめるが、その内側は、強奪と邪悪とでいっぱいです」(ルカ11:39)と言われたイエスは、「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。あなたがたは、実によって彼らを見分けることが出来ます。...わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣言します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」(マタイ7:15〜23)とも言われました。人の外見、見せ掛けの言葉(「主よ、主よ」)、業(『預言、除霊、奇蹟』)にではなく、日常の行動(『結ぶ実』)に、その人の心の内にあるもの、ことが表れるということを指摘された厳しいお言葉ですが、この原則を応用するなら、行動の伴わない『ぶりっ子』は、その心をご覧になる神の目には邪悪な者であり、神の国から締め出されることになるのです。もちろん、最初に取り上げたたとえを説明された時主が語られたお言葉、「しかもあなたがたはそれを見ながら、...悔いることもせず、彼を信じなかったのです」(マタイ1:32、下線追加)から、態度を改める機会が与えられながら、かたくなに悔い改めようとしない者が非難されていることは言うまでもありません。
  主は評判を意識する「良い人」を望んではおられないことを教えたもうひとつのたとえがあります。
  さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女にマリヤという妹がいたが、主の足元にすわって、みことばに聞き入っていた。ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ、妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(ルカ10:38〜42)
  主から与えられた賜物を生かし、主が喜んでくださること、最優先、正しいと信じたことを積極的に実践することは良いことです。そのことを聖書は奨励しています。しかし自分の価値観を他人に押し付け、他人が自分の思うように動かないからと言って、他人への非難が始まる時、自分こそ他人の価値観を盲目的に受け入れていた被害者だったことに気づき、同時にまた別の他人への加害者になり始めていることに気づかされるのです。マルタが自らの価値観で主をもてなすことが最優先と信じていたとしたら、マリヤのことは気にならず、喜んで奉仕し、主もそのことを喜んでくださったことでしょう。一方で、主のみ言葉に飢えていたマリヤは自分で正しいと信じたことを、他人の目、価値観に影響されることなく実践していたのでした。主は聖霊に導かれ、心底から主に仕える者を最も喜ばれるのです。

 
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This month a money gift has been sent to International Bible Society(UK), to support their African mission. Africa increasingly needs humanitarian action and practical support to be rescued from the horrendous situations caused by civil war, inhumane regime, famine, starvation, diseases such as AIDS, barbaric slavery and insatiable exploitation by the developed countries. However, behind these outward needs there are more deep-rooted spiritual needs, which IBS ministry is addressing by providing God's Word. It will be when the sword of conflict in Africa is replaced by 'the sword of the Spirit, which is 'the word of God' (Eph. 6:17) that healing and reconciliation will fill the whole continent. IBS aims to strategically present Scriptures to political leaders and also to primarily provide 'study Bibles' for pastors, evangelists and lay preachers because, with literally thousands of Africans coming to Christ daily, there is a pressing need for God's Word. Pray for their work of evangelism there and of publication in as many languages as possible so that more Africans will be lead to hope in Christ out of deep spiritual darkness.
MARY JANE has started her ministry in Kent, England. Her mother is looking after the children in a poverty stricken area in the Philippines, to whom Mary Jane had been ministering for the last two years. Pray for the Lord's support and help for their ministries to children.

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