ULDAH MINISTRY

LETTER TO THE BROTHERS AND SISTERS IN CHRIST

わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。

イザヤ65:1

第60号  2000 年 9 月 29 日


  幸いなことよ。すべて主を恐れ、主の道を歩む者は.あなたは、自分の手の勤労の実を食べるとき、幸福で、しあわせであろう。あなたの妻は、あなたの家の奥にいて、豊かに実を結ぶぶどうの木のようだ.あなたの子らは、あなたの食卓を囲んで、オリーブの木を囲む若木のようだ。見よ。主を恐れる人は、確かに、このように祝福を受ける。主はシオンからあなたを祝福される。あなたは、いのちの日の限り、エルサレムの繁栄を見よ。あなたの子らの子たちを見よ。イスラエルの上に平和があるように。        詩篇128篇
   主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。主を恐れよ。...若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。来なさい。子たちよ。私に聞きなさい。主を恐れることを教えよう。...                                       詩篇34:8〜12篇
   私の口には一日中、あなたの賛美と、あなたの光栄が満ちています。年老いた時も、私を見放さないでください。私の力の衰え果てたとき、私を見捨てないで下さい。...
神よ。あなたは、私の若いころから、私を教えてくださいました。私は今もなお、あなたの奇しいわざを告げ知らせています。年老いてしらがになっても、神よ、私を捨てないでください。私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせます。             
                詩篇71:8〜18篇
   正しい者は、なつめやしの木のように栄え、レバノンの杉のように育ちます。彼らは、主の家に植えられ、私たちの神の大庭で栄えます。彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。こうして彼らは、主の正しいことを告げましょう。                                            詩篇92:12〜15篇    
       

  旧約聖書では、人生の絶頂期を老齢期に置いています。それは、人生の年月が刻み込む豊かな経験と威信の両方を兼ね備えた実りの年です。現代社会の実年齢を隠し、若く見せようとする風潮とは対照的に、年相応に生きてきた、生きていると評価されることが誇りであり、祝福の証しでした。確かに、イスラエル史に登場する人物の死亡時の年齢を、アブラハム175歳、サラ127歳、イサク180歳、イシマエル137歳、ヤコブ147歳、ヨセフ110歳、モーセ120歳、ヨシュア110歳、エリ98歳というように、長寿が祝福の証しであるかのように聖書は記録しています。もちろん、例外がなかったわけではなく、ノアの洪水前に生きた者としては短命だったエノクの例を、「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった」(創世記5:24)と、聖書は特記しています。しかし聖書の強調は肉体的な健やかさにというより、霊的、心理的、精神的健やかさに置かれているようです。そこには肉体的な変化、衰弱を自然現象としてありのままに受け留め、高齢に達することによって没頭できるようになる役割―子孫、後世に主の恵み、知恵、力、救いを告げ知らせること―に主の証し人としての喜びを見出し、死を肯定的に見つめて生きようとする者の姿が描かれているのです。ヘブライ人社会には、年を取るにつれ役立たずになるという発想は全くなく、高齢者が社会の片隅で申し訳なさそうに生き長らえなければならないという心的状態に追いやられることなどあり得ないことでした。「古いほど良い」と、老熟が尊ばれた社会だったのです。
  ユダヤ教の解釈書に、「高齢歓迎!神に愛されている証し」(ミドラシュ、出エジプト記ラバー5:12)とコメントがあるように、老齢は祝賀に相応しい社会の誇りでした。この聖書的な見地は、今日人類が直面している高齢化社会問題、老化研究に光明を与えるのではないかと思いますが、それにはまず、人生の下降期にある者たちが自らの肉体の老化現象を否定、覆い隠そうとするのではなく、自然の過程としてありのままに受け入れる姿勢が大切なように思います。肉体の老化、衰弱を直視し、認めない限り、老齢を神の祝福として捉えることは出来ないからです。祝福の人生を送った聖徒たちも、老後は大なり小なり肉体の不自由さ―筋力、骨力、五感、内臓の衰え等、肉体の衰弱、白髪化はじめ、皮膚の伸縮力減少等による外的兆候―を経験したのでした。イサク、ヤコブともに視力が衰えたこと、士師の一人エリは転んだ折、肥満が災いして首骨折で死亡したこと、ダビデ王に仕えたギルアデ人バルジライは、八十歳で、味覚、聴覚、判断力の衰えを自ら認識し、王の薦めにもかかわらず、栄職を辞退、若者に譲ったこと、「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と武勇をたたえられた武者ダビデも老後は自律神経失調症で、体の冷えを克服することが出来なかったことが記されているのです。
  「伝道者の書」12章は、四肢に力がなくなり、痙攣に襲われ、視力、聴力は衰え、発声も困難になり、体のバランスが保てないことへの恐怖におびえ、動作は鈍り、不眠にさいなまされ...と、人間誰しも通らなければならない、寄る年波には勝てない肉体の確実な衰えを隠喩でありありと描いています。しかしこのような老後の状態が、「何の喜びもない」、災いの日と映るのは、あなたが創造者の存在を知らないからである、という伝道者の主張が背後にあることを見落としてはならないのです。人生の最後が災いとならないために、『あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。災いの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。』と12章冒頭で伝道者が警告しているのは、身上、身辺に起こる出来事をどのように捉えるかによって、個人の生き方が劇的に変えられるからなのです。個々人への神の愛の配慮、ご計画を認識し、老化の過程を平安に受け留めることの出来る者と、心に拠り所がなく、死を直視できず、老化におびえる者との両極化は現実の問題であり、今後高齢化社会の問題は、後者に対する愛の配慮、死への備えの導きに絞られて行くことでしょう。
  老齢を自ら正しく認識することが当事者に要求される一方で、大切なのは、、高齢者に対する周りの者たちの側の正しい認識です。モーセに与えられた十戒の五つ目の掟は、「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えられようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである」ですが、これはもともと子どもにではなく、ヘブライ人の大人に向けて命ぜられたものでした。ユダヤ教の律法解釈書タルムードは、両親への崇敬を神への崇敬に関連付けて、「人(の創造)には三人の親がいる。神、父、母である。人が父母を敬うとき、神は、『わたしが彼らと共に住み、わたしが敬われているかのようだ』と、言われる。」(キドシン30b)と教えていますが、これは、イエス、パウロの教えの中でも強調されたことでした。さらにモーセは、「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない」(レビ記9:32)と教えていますが、、ヘブライ人はこのようにして、高齢者を仰ぎ、助言を得、知恵を学んだのでした。たとえば、高齢者の扱い方に関して預言者エリシャの例から教訓を学ぶことが出来るかもしれません。『エリシャはそこからべテルへ上って行った。彼が道を上って行くと、この町から小さい子どもたちが出て来て、彼をからかって、「上って行け(邦訳では、「上って来い」)。はげ頭。上って行け。はげ頭。」と言ったので、彼は振り向いて、彼らをにらみ、主の名によって彼らをのろった。すると、森の中から二頭の雌熊が出て来て、彼らのうち、四十二人の子どもをかき裂いた。』(列王記下2:23〜24)は、エリシャを嘲弄した子どもたちが直ちに下された神の裁きにより、命を失ったことを伝えているくだりです。ここで、「大勢いれば怖くない」という群集心理で大胆不敵な集団行動を取った子どもたちは、用いられているヘブライ語から、児童ではなく、行動の責任を十分負うことの出来る年齢に達している大人、おそらく三十歳くらいまでの若者であったと考えられるのです。すなわち無邪気な子どもたちの面白半分のからかいではなく、高齢者に対する若者の意図的な侮辱行為でした。神の言葉を託された老熟したエリシャに、エリシャの前任者、エリヤが竜巻に乗って昇天、神の御許に召されたように、お前も「上って行け」―目の前から消え去れ!死ね!―と、嘲弄した者たちの言動は、老人を脅し、からかっただけでなく、神の権威への挑戦という冒涜行為でもあったのでした。このように神の掟をないがしろにした者たちの行く末は、恐ろしい裁きでした。また、「若者が年寄りに向かって高ぶる」時流の中に、社会の道徳的、霊的荒廃の兆しをいち早く感知し、警告を発したのは、預言者イザヤであり、エレミヤでした。家庭を健全な社会活動の源、最小単位であることを前提とする、「慈愛は家庭から始まる」ということわざにもあるように、「あなたを生んだ父の言うことを聞け。あなたの年老いた母をさげすんではならない。...あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませよ。」(箴言23:22〜25)という教えは、健全な親子関係、円満な家庭を健全な社会の基盤とみなしてきたヘブライ人の伝統的な価値観、家庭観を支えるものでした。しかし昨今、同性間で築き上げる家庭、神が目的を持って創造された異なった性を無視した夫婦関係の主張など法外なアイデアの氾濫によって脅威にさらされているのは、まさにこの伝統的な教えなのです。。
  ユダヤ教の教師ラビたちは、人の社会での役割を五歳から百歳の者に年齢別に次のように割り当てています。「五歳で聖書、十歳でミシュナー、十三歳で掟、十五歳でタルムードの学びを始め、十八歳で結婚、ニ十歳で生計を立て、三十才で成熟に達する。四十歳で理解を深め、五十歳で他者に助言を与え、六十歳で長老となり、七十歳で白髪を誇り、八十歳で格別なる生存力を発揮し、九十歳で腰は曲がり、百歳で死ぬ年齢に達し、この世を去る」(アボット5:21、フルダ訳)と。言うまでもなく、「幸いなことよ。知恵を見いだす人、英知をいただく人は。...その右の手には長寿があり、その左の手には富と誉れがある」、「しらがは光栄の冠、それは正義の道に見いだされる」、「年寄りの飾りはそのしらが」、「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年」の諸聖句がラビたちの教えの背景になっているようです。それにしても、聖書に登場する聖徒たちの老後に目を留めてみて気づかされたのは、神を仰ぎ見て生きた者たちの中に誰一人として痴呆症状に陥った者がいなかったということです。「モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった」(申命記34:7、下線付加)の記述に代表されるように、人生の最期の瞬間まで、意欲的、精力的に神のために生きた聖徒たちに共通していたのは、神を信じることによって培われた、研ぎ澄まされた霊性、健全な精神性だったのでした。

 

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