ULDAH MINISTRY

LETTER TO THE BROTHERS AND SISTERS IN CHRIST

わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。

イザヤ65:1

第63号  2000 年 12月 29日


   21節 昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者は裁きを受けなければならない。』と言われたのをあなたがたは聞いています。22節 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。...38節 『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
39節 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。40節 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着をもやりなさい。41節 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょにニミリオン行きなさい。42節 求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。43節 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。44節 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。...  マタイ5:21−22、…:38−44、…


   中東和平交渉が暗礁に乗り上げたまま二十一世紀を迎えようとしています。戦争と改革,科学と技術,人間主張,経済拡張,市場と情報の世紀と言われた二十世紀の終幕です。二つの世界大戦ほか,多くの流血惨事,特定民族の大量虐殺を経験した二十世紀の悲劇を決して二十一世紀に持ち込まないようにという悲痛な願いは人間なら誰もが共通に抱いていることでしょう。しかし悲しくも現実は、人種問題、拡大する貧富の差、環境破壊、無差別テロへの脅威など未解決の難題をすべて引きずって二十一世紀入りしようとしています。民族的,国際的,社会的問題に加えて,とりわけ二十一世紀がかかえることになる人間史上最大の難題は,生命観の変更に挑戦する生命科学の発展,いや、悪用への危惧でしょうか。病気の克服に挑戦して成果を挙げ、人類の延命に貢献してきた生命科学が、二十一世紀では、治療の領域を越えて自己中心の人間の欲望を満たすための遺伝子操作、不妊解消、高齢出産を可能にする細胞質移植による生殖医療技術から、果てにはクローン技術による複製人間製造へとエスカレートする悪夢のような世紀にならないと誰が言い切ることが出来るでしょうか。加速度的な発展を遂げると予測される技術・情報工学、生命科学の世紀、二十一世紀はまたすべての領域で、「必要」と「欲望」の一線をどこに引くのかが大きな論争を呼ぶ世紀になることでしょう。
  判断の基準がすべて相対化してしまっている社会にあって、危機感から、「単に賛成、反対と言い合うだけでは何も解決できない。縦割り行政の国、利害関係に関わっている研究者、企業から独立した、偏見なく問題解決に取り組むことの出来る機関設立が必要」という声もちまたで上がっているようですが、根源的な問題解決を与えてくれるのは聖書のみです。そこには、今日失われてしまった絶対基準、すなわち、人間ではない、神の秩序が明記されているのです。人間が自らの知恵を追求しているうちに神の基準を失ってしまったのは、自然、科学、国際、社会、経済、政治、家庭、医学等々、すべての領域においてですが、昨今、中東を揺るがしている和平問題、平和に関して聖書はどのように語っているのでしょうか。冒頭に引用したイエスの教えから、無抵抗の平和主義が文句なく聖書の主張であると信じる者たちも多いのですが、果たして聖書は悪に対して無防備、絶対的無抵抗を主張しているのでしょうか。それにしては、弟子たちに、イエスの死後護身の必要が生じることを教えた忠告の中で、「剣のない者は着物を売って剣を買いなさい。」(ルカ22:36)と語られたイエスの御言葉は不可解に聞こえます。同時に信者は、果敢に、「悪魔に立ち向かいなさい」と奨励されていますが、両刃の剣である「神の言葉」以外の武器を用いることは絶対に禁じられているのでしょうか。ヒントはイエスの教えの背景になっているヘブライ語聖書(旧約聖書)での教え、言葉がどのような文脈、意味で用いられたかにあるようです。
  まず、イエスが引用された「人を殺してはならない」と邦訳されているモーセの十戒の六番目の教えは、ヘブライ語でもギリシャ語でも殺意を持って人を殺す「殺人」に対する禁止であるということに注目しなくてはなりません。言い換えれば、神が掟で厳しく命ぜられたのは、護身のため、他人を守るため、また不可抗力で起こる殺人ではなく、敵意を抱いて意図的、計画的に執行される殺害であったということです。裏返せばそのような悪が背後に潜む殺害には服従してはならず、頑として抵抗しなければならないのです。たとえば、イスラエルの民がエジプトで隷属下にあったとき、増え広がり強力になった民に恐れをなしたエジプト王が、またそれより遥か後世に、救い主が生まれるという情報に王座を奪われることを恐れたエドム人へロデ大王がそれぞれに発令した、ヘブライ人の男児虐殺命令などは無抵抗で服従する類のものでは決してなく、神を恐れたヘブライ人の助産婦達がパロに嘘をついてまで男児を生かそうと努めたことは神の目にかなうことだったのでした。したがって、まずイエスが、大命令の一つ『殺害するな』という掟から発展させて教えられたのは、憎しみの心象現象である「兄弟に向かって腹を立てる」ということは罪が軽いように見えても実際には、心の中でぐつぐつと煮え立っていた憎しみが形を取って現れる「殺人」行為と何ら変わらない、すべてをお見通しの神の前には同様に大罪であるということでした。心の中で思い巡らしていることが結果的に行動となって現れるのですから、憎しみの思いは憎しみが具体化した「殺人」と同罪であるという手厳しい指摘でした。しかし次に38節以降で主が指摘されたのは、文脈から、そのような殺人者、殺人行為、暴力に対してどう対処するかではなく、悪事を働く、あるいは不当な取り扱いをする隣人、友人、身内、回りの者たちに対する個人的な対処の仕方、クリスチャンの「主の証人」としてのあるべき姿勢でした。「目には目で、歯には歯で」が当然とみなされていた当時の人間関係でもって相手に対処するのではなく、すなわち不当な行為で臨む者にそれと同じ仕打ちで臨むのではなく、己を無にする兄弟愛を実践して行きなさいという教えだったのでした。この教えは明らかに、悪、殺害、暴力に対し護身しなければならない場合の対処の仕方を扱っているものではないことから、イエスの主張された平和主義は盲目的な服従を奨励をしたものではないと結論付けることが出来るのです。しかし基本的にはパウロの教えにあるように、「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人と平和を保ちなさい。…自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。…善を持って悪に打ち勝ちなさい」(ローマ人12:17―21)に徹することが日常の人間関係にあって物事を平和裏に収拾して行く唯一の方法なのです。
21昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者は裁きを受けなければならない。』と言われたのをあなたがたは聞いています。22しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。...38『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。39しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。40あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着をもやりなさい。41あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょにニミリオン行きなさい。42求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。43『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。44しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。...        [ マタイ5:21−22、…:38−44、…]
   中東和平交渉が暗礁に乗り上げたまま二十一世紀を迎えようとしています。戦争と改革,科学と技術,人間主張,経済拡張,市場と情報の世紀と言われた二十世紀の終幕です。二つの世界大戦ほか,多くの流血惨事,特定民族の大量虐殺を経験した二十世紀の悲劇を決して二十一世紀に持ち込まないようにという悲痛な願いは人間なら誰もが共通に抱いていることでしょう。しかし悲しくも現実は、人種問題、拡大する貧富の差、環境破壊、無差別テロへの脅威など未解決の難題をすべて引きずって二十一世紀入りしようとしています。民族的,国際的,社会的問題に加えて,とりわけ二十一世紀がかかえることになる人間史上最大の難題は,生命観の変更に挑戦する生命科学の発展,いや、悪用への危惧でしょうか。病気の克服に挑戦して成果を挙げ、人類の延命に貢献してきた生命科学が、二十一世紀では、治療の領域を越えて自己中心の人間の欲望を満たすための遺伝子操作、不妊解消、高齢出産を可能にする細胞質移植による生殖医療技術から、果てにはクローン技術による複製人間製造へとエスカレートする悪夢のような世紀にならないと誰が言い切ることが出来るでしょうか。加速度的な発展を遂げると予測される技術・情報工学、生命科学の世紀、二十一世紀はまたすべての領域で、「必要」と「欲望」の一線をどこに引くのかが大きな論争を呼ぶ世紀になることでしょう。
  判断の基準がすべて相対化してしまっている社会にあって、危機感から、「単に賛成、反対と言い合うだけでは何も解決できない。縦割り行政の国、利害関係に関わっている研究者、企業から独立した、偏見なく問題解決に取り組むことの出来る機関設立が必要」という声もちまたで上がっているようですが、根源的な問題解決を与えてくれるのは聖書のみです。そこには、今日失われてしまった絶対基準、すなわち、人間ではない、神の秩序が明記されているのです。人間が自らの知恵を追求しているうちに神の基準を失ってしまったのは、自然、科学、国際、社会、経済、政治、家庭、医学等々、すべての領域においてですが、昨今、中東を揺るがしている和平問題、平和に関して聖書はどのように語っているのでしょうか。冒頭に引用したイエスの教えから、無抵抗の平和主義が文句なく聖書の主張であると信じる者たちも多いのですが、果たして聖書は悪に対して無防備、絶対的無抵抗を主張しているのでしょうか。それにしては、弟子たちに、イエスの死後護身の必要が生じることを教えた忠告の中で、「剣のない者は着物を売って剣を買いなさい。」(ルカ22:36)と語られたイエスの御言葉は不可解に聞こえます。同時に信者は、果敢に、「悪魔に立ち向かいなさい」と奨励されていますが、両刃の剣である「神の言葉」以外の武器を用いることは絶対に禁じられているのでしょうか。ヒントはイエスの教えの背景になっているヘブライ語聖書(旧約聖書)での教え、言葉がどのような文脈、意味で用いられたかにあるようです。
  まず、イエスが引用された「人を殺してはならない」と邦訳されているモーセの十戒の六番目の教えは、ヘブライ語でもギリシャ語でも殺意を持って人を殺す「殺人」に対する禁止であるということに注目しなくてはなりません。言い換えれば、神が掟で厳しく命ぜられたのは、護身のため、他人を守るため、また不可抗力で起こる殺人ではなく、敵意を抱いて意図的、計画的に執行される殺害であったということです。裏返せばそのような悪が背後に潜む殺害には服従してはならず、頑として抵抗しなければならないのです。たとえば、イスラエルの民がエジプトで隷属下にあったとき、増え広がり強力になった民に恐れをなしたエジプト王が、またそれより遥か後世に、救い主が生まれるという情報に王座を奪われることを恐れたエドム人へロデ大王がそれぞれに発令した、ヘブライ人の男児虐殺命令などは無抵抗で服従する類のものでは決してなく、神を恐れたヘブライ人の助産婦達がパロに嘘をついてまで男児を生かそうと努めたことは神の目にかなうことだったのでした。したがって、まずイエスが、大命令の一つ『殺害するな』という掟から発展させて教えられたのは、憎しみの心象現象である「兄弟に向かって腹を立てる」ということは罪が軽いように見えても実際には、心の中でぐつぐつと煮え立っていた憎しみが形を取って現れる「殺人」行為と何ら変わらない、すべてをお見通しの神の前には同様に大罪であるということでした。心の中で思い巡らしていることが結果的に行動となって現れるのですから、憎しみの思いは憎しみが具体化した「殺人」と同罪であるという手厳しい指摘でした。しかし次に38節以降で主が指摘されたのは、文脈から、そのような殺人者、殺人行為、暴力に対してどう対処するかではなく、悪事を働く、あるいは不当な取り扱いをする隣人、友人、身内、回りの者たちに対する個人的な対処の仕方、クリスチャンの「主の証人」としてのあるべき姿勢でした。「目には目で、歯には歯で」が当然とみなされていた当時の人間関係でもって相手に対処するのではなく、すなわち不当な行為で臨む者にそれと同じ仕打ちで臨むのではなく、己を無にする兄弟愛を実践して行きなさいという教えだったのでした。この教えは明らかに、悪、殺害、暴力に対し護身しなければならない場合の対処の仕方を扱っているものではないことから、イエスの主張された平和主義は盲目的な服従を奨励をしたものではないと結論付けることが出来るのです。しかし基本的にはパウロの教えにあるように、「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人と平和を保ちなさい。…自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。…善を持って悪に打ち勝ちなさい」(ローマ人12:17―21)に徹することが日常の人間関係にあって物事を平和裏に収拾して行く唯一の方法なのです。

Thought of the Month……….

 See now, the Lord, the Lord Almighty, is about to take from Jerusalem and Judah both supply and support: all supplies of food all supplies of water, the hero and warrior, the judge and prophet, the soothsayer and elder, the captain of fifty and man of rank, the counsellor, skilled craftsman and clever enchanter. I will make boys their officials; mere children will govern them. People will oppress each other-man against man, neighbour against neighbour. The young will rise up again the old, the base against the honourable. …Youths oppress my people, women rule over them. O my people, your guides lead you astray; they turn you from the path. … But the people have not returned to him who struck them, nor have they sought the LORD Almighty. So the LORD will cut off from Israel both head and tail, both palm branch and reed in a single day; the elders and prominent men are the head, the prophets who teach lies are the tail. Those who guide this people mislead them and those who are guided are led astray. Isaiah 3:1~5, …12, …9:13~16
Now churches and Christian countries are being shaken from within. This is a sign of the end of the age as Peter put it: 'For it is time for judgment to begin with the family of God.' Needless to say, he also warns that this would be followed by far more terrible judgment upon the ungodly and the unbelieving. Accordingly, intercessory prayers for the whole world are much needed. A clear mind and God- and others- centred hearts are what are required nowadays more than ever before, as we witness the global trend of division and chaos around us. Isn't the present crisis of leadership being experienced in every dimension of society and nations a sign of the up-coming anarchy and lawlessness, both of which are understood to result after experiencing failure in Imperialism, Autocracy, Dictatorship and Democracy?

 

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