ULDAH MINISTRY

LETTER TO THE BROTHERS AND SISTERS IN CHRIST

わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。

イザヤ65:1

第66号  2001 年3月 30日


  先月号で、ルツ記には、贖い主イエス・キリストとキリストの花嫁との関係が、贖い主ボアズと異邦人妻ルツに託して語られていることに言及しましたが、民族の霊的純血が命ぜられ、異邦人との結婚を通して異教の風習に染まったり偶像崇拝に陥ることが厳しく禁じられていたイスラエルにあって、族長はじめイスラエルの指導者たちの妻が必ずしもへブル人ではなかったという意外性に気づかされます。ルツ記の一つの特徴はこのような意外性にあると言ってもよいほど、語りの中でそれまでのへブル人の伝統的な思考、期待を覆すような出来事の展開が見られるのは、注目に値します。
   イスラエルの族長ヨセフの妻がエジプト人で、解放者モーセの妻がミデヤン人であったことは彼らが置かれた環境からやむを得ないことですが、ルツ記の著者は終章に、ダビデに至る系図を族長の一人ユダとカナン人タマルとの間に生まれた非嫡出子ペレツから始め、さらにカナン人ラハブとモアブ人ルツ等異邦人女性がイスラエルの王家の血筋―その血筋から救い主が生まれる―に関わっていることを強調して締めくくっているのです。それはあたかも神のご計画が当初から、イスラエル単一民族の救いではなく全人類の救いであったことを訴えているかのようです。「サルモン」はヨシュアの時代のカナン人の遊女ラハブの夫と同一人であるとしたら、サルモンからボアズの間にはニ、三百年のギャップがあることになり、ボアズの遥か先祖にすでに異邦人ラハブが関わっていたという驚き、また主を自らの神と告白し従う者が、神の選びの民であるなしに関わらず主の救いのご計画の中に組み込まれていたという事実に、読者の関心は引きつけられるのです。ヨシュアの送ったイスラエルの偵察隊を霊的洞察でかくまい、救いを得た遊女ラハブに対し、タマルは策士で、夫の死後、イスラエルの掟では合法であった義弟との結婚がなかなか許可されず止む無く寡婦の状態に置かれていたとき、遊女に化けて義父ユダをたぶらかし、ペレツを産んだのでした。タマルは、「しっかりした女」とボアズからも町民からも評価されどのような状態にあっても賢く振舞うことの出来たルツとは際立った対照を成していますが、同様に、遊女に化けた嫁に簡単にたぶらかされてしまった好色のユダと、自制心のある思慮深いボアズも好対照を成しています。しかも、ダビデからイエス・キリストに至る系図が、自制心のある善良な忠臣ヘテ人ウリヤを裏切り、意図的に戦死させて、自分の妻にしたバテ・シェバと好色ダビデとの間に生まれた子ナタンの血筋であることも含めると、神がこれらすべての者たちを、へブル人、異邦人に関わりなく、また弱い個々の人間の過ちをも用いて遠大なご計画の中に入れて下さり、全人類の救いを人間史の最初から着々と進めておられたことを改めて知らされるのです。人間の道徳観、常識では真意を汲みかねるような意外性が神のご計画の中にあることをこの系図(ルツ記4:18〜22)は示唆しているのです。
   アブラハムが息子イサクの花嫁を捜すため、全信頼を置いていた最年長のしもべを彼の産まれ故郷に送ったとき、ナホルの町の井戸辺でこのしもべに水を汲んでくれたのがリベカで、イサクの妻になりました。またヤコブが井戸の水を汲み、飲ませたのはラケルが世話をしていた羊で、ラケルはヤコブの妻になりました。さらにモーセが汲んで飲ませた羊はミデヤンの祭司の群れで、羊の世話をしていた娘の一人チッポラはやはりモーセの妻になりました。という具合に、語り手にとって異郷の地での井戸の回りは、主人公が花嫁と出会う場という伝統的通説、期待を設定するのに好都合だったかもしれません。イサク(実際には彼の代理人としてのアブラハムのしもべ)、ヤコブ、モーセは皆、異郷の地に行き井戸の回りにいる女性たちの中から花嫁を選んだのでした。ですからルツ記においても、モアブの地から異郷の地ユダに来た主人公ルツは、当然水がめの回りにいる若者たちの中から花婿を選ぶだろうという筋書きが予測されるのです。しかし予期に反して、ルツの関心は若者の後を追うことではなく、イスラエルの神ヤーウェと同時にしゅうとめナオミに仕えることでした。「娘さん。主があなたを祝福されるように。あなたのあとからの真実は、先の真実にまさっています。あなたは貧しい者でも、富む者でも、若い男たちのあとを追わなかったからです。...この町の人々はみな、あなたがしっかりした女(神の御旨に答えて賢く振舞う女)であることを知っているからです」(ルツ記3:10〜11)というボアズの評価から窺うことが出来るのです。この異邦人のルツを「買い戻しの権利のある親類」の一人であったボアズは花嫁として迎えることになるわけですが、彼の選びの基準がへブル人という血筋にあったのではなく、「(あなたの)先の真実」、すなわち、「あなたの夫がなくなってから、あなたがしゅうとめにしたこと、それにあなたの父母や生まれた国を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私はすっかり話を聞いています。主があなたのしたことに報いてくださるように。またあなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」(2:11〜12)と、ボアズが認めたように、ルツの献身的な忠誠心にあったことは注目に値します。アブラハムもイサクも息子の花嫁の条件を血筋優先にしたこととは、大きな対照を成しているのです。なるほど民族の純血を願ったアブラハムの意向に反して、異邦人が組み入れられたイスラエルの王ダビデの血筋から、約束の救い主イエスが御降誕されたのでしたが、しかしルツに対する上述の11節の評価は意外にも、神のアブラハムに対する評価でもあったことに気づかされます。アブラハムの信仰をへブル人への手紙の著者は、「信仰によってアブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました」(へブル人11:8)と表現しましたが、イスラエルの神を慕って東の地モアブからユダの地に移ったルツの行動には、東の地ウルから信仰によってカナンへと移動したアブラハムの行動が反映されているようです。言い換えれば、遺伝的血筋の継承ではなく、神への忠誠、信仰という霊的遺産の継承に力点が置かれているのです。神のイスラエルとの契約の成就、救いの約束の成就が信仰に基づくものであることをルツ記は語っているのです。
   これはまさにルツ記の重要なテーマの一つが、「帰還」(祖国に帰る、すなわち悔い改めて神に立ち帰ること)であることとも一致しています。ルツ記に先行する士師記では、『ベツレヘムを離れるとろくな事がない』という印象を与える出来事が、ユダ族レビ人のある若者、またあるレビ人と彼のそばめとの例を挙げて語られていますが、彼らに巻き込まれた回りの者たちも非常な災いに会ったというこれらの先例は、ベツレヘムを離れるということと苦しみを関連させることが不自然ではなかったことを示唆しているようです。ですから、ルツ記冒頭でのエリメレクと妻ナオミ、彼らの二人の息子が祖国ユダのベツレヘムから異邦人の国モアブへ移動したということに暗示されていた不安感は、ナオミとルツのベツレヘム帰還によって文字通り吹き飛ばされ、二人は大歓迎を受けたのでした。神に立ち返ることの喜びが、二人の思いがけない帰還に託して表現されたのでした。
   最後に、ルツとナオミの、物事、出来事の受け留め方の違いから、教訓を学ぶことが出来ます。ナオミはベツレヘムを去って以降我が身に降りかかった一連の出来事を次のように表現しました。「私をナオミ(楽しい)と呼ばないで、マラ(苦しい)と呼んでください。全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから。私は満ち足りて出て行きましたが、主は私を素手で帰されました。なぜ私をナオミと呼ぶのですか。主は私を卑しくし、全能者が私をつらいめに会わせられましたのに」(1:20〜21)と。実際にはナオミの感じた空しさ、辛さは神を見失ったところから生ずる霊的な飢饉、心の飢え渇きを訴えるものでしたが、自分の置かれている境遇の中で神を理解しようとしたナオミの観点からは、自らの真の姿を見ることは出来なかったのでした。ナオミにとって空しさ、辛さが唯一の現実で、このような状態に会わせる神とは一体どういう神なのだろうかという視点からのみ、神を理解しようとしたのです。しかしもしナオミが、神を、自分に起こっている現象の中で理解しようとするのではなく、現象を、不変で真理の神に照らして理解しようとしたなら、どのような境遇に置かれようと神に感謝、信頼し、すべてを御手に委ねて行くことが出来たはずでした。後者がルツの生き方だったのです。ナオミの視点から神を捉えようとすると、すべてが順調に行っているときには善なる神、逆境に置かれた時には不公平な神と、不変なはずの神ご自身が人間の側の受け留め方で随分違った神に見えてくるのです。自らの狭小な経験の枠の中で神を定義しようとするのではなく、ルツのように主を絶対的に信頼して行くとき、全人類は間違いなく主の恩寵の内に入れられるのです。

 

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   This month a money gift has been sent to MARY JANE (for the present in Kent, UK.) to support her ministry for the children in need in the Philippines. Pry for appropriate preparation for her to resume tending the children from this coming June and also for the Lord 's provision for her needs.
FREDERIC returned to Nairobi from Jerusalem this month after a week's stay over there for a peace conference, 'African Millennium Consultation' as one of the delegates from his country, Burundi. Fortunately, he was one of the only two Burundians who were able to attend the conference simply because they were in Kenya (as for FERDERIC, ironically enough as a refugee). Regrettably, nine other representatives from Burundi who had been expected to be with them, were unable to do so, due to a recent outbreak of war in the capital city of Burundi. Imagine, how much gratitude he had to the Lord, who gave him a once in a lifetime opportunity to visit Jerusalem, which the Lord Jesus loved. Pray for his ministry to refugees in Kenya, to stand for whom the Lord meant to provisionally place him as a refugee himself as well. Also pray for the fruits of the conference to be materialised in contemporary situations.
'A cheerful look brings joy to the heart, and good news gives health to the bones.'
' Like cold water to a weary soul is good news from a distant land.' Proverbs 16:30, 25:25
How wonderful it is to hear from you, with whom we share our monthly news!! It is also encouraging to know that we are being remembered in one another's prayers. Continually pray for those labourers of the Lord and their efficient work without hindrance and also for prayer supporters.

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