ULDAH MINISTRY

LETTER TO THE BROTHERS AND SISTERS IN CHRIST

わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。

イザヤ65:1

第67号  2001 年4月 27日


  主は彼(エリヤ)に仰せられた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油をそそいで、アラムの王とせよ。また、ニムシの子エフ−に油をそそいで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラの出のシャファテの子エリシャに油をそそいで、あなたに代わる預言者とせよ。......
   主がエリヤをたつまきに乗せて天に上げられるとき、エリヤはエリシャを連れてギルガルから出て行った。エリヤはエリシャに、「ここにとどまっていなさい。主が私をべテルに遣わされたから。」と言ったが、エリシャは言った。「主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、彼らはべテルに下って行った。すると、べテルの預言者のともがらがエリシャのところに出て来て、彼に言った。「きょう、主があなたの主人をあなたから取り上げられることを知っていますか。」エリシャは、「私も知っているが、黙っていてください。」と答えた。それからエリヤは彼に、「エリシャ。ここにとどまっていなさい。主が私をエリコに遣わされたから。」と言った。しかし、...エリヤは彼に、「...ヨルダンへ遣わされたから。」と言った。しかし、...ふたりがヨルダンのほとりに立ったとき、エリヤは自分の外套を取り、それを丸めて水を打った。すると、水は両側に分かれた。それでふたりはかわいた土の上を渡った。渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。「私はあなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に、求めなさい。」すると、エリシャは、「では、あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように。」と言った。エリヤは言った。「あなたはむずかしい注文をする。しかし、もし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことがあなたにかなえられよう。できないなら、そうはならない。」こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、一台の火の戦車と火の馬とが現われ、このふたりの間を分け隔て、エリヤは、たつまきに乗って、天へ上って行った。エリシャはこれを見て、「わが父。わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち。」と叫んでいたが、彼はもう見えなかった。そこで、彼は、自分の着物をつかみ、それを二つに引き裂いた。それから、彼はエリヤの身から落ちた外套を拾い上げ、引き返してヨルダン川の岸辺に立った。彼はエリヤの身から落ちた外套を取って水を打ち、「エリヤの神、主は、どこにおられるのですか。」と言い、彼が再び水を打つと、水が両側に分かれたので、エリシャは渡った。エリコの預言者のともがらは、遠くから彼を見て、「エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている。」と言い、彼を迎えに行って、地に伏して彼に礼をした。
 
                            列王記上19:15〜16、列王記下2:1〜15


   イエス・キリストと、「救い主」の訪れをこの世に告げ知らせるために遣わされた先駆者ヨハネとの関係は、よく旧約時代の解放者モーセと後継者ヨシュア、預言者エリヤと後継者エリシャとの関係にたとえられます。これら三人の後継者は先駆者から受け継いだ神のご計画を完成することになるわけですが、この神のご計画は、三人の名にすでに反映されていました。すなわち、『救いの業』を担うため遣わされたのです。エリシャもイエスも「私の神は救い」という意味で、また、「主は私の救い」という意味のヨシュアが、イェシュア、つまりイエスであるということは単なる偶然ではないのです。神のご計画を担うべく遣わされた者たちには、時代を超えて多くの共通点が見られますが、預言者エリシャの生きざま、また、彼のミニストリーには確かに、イエス・キリストの働きを予兆させる驚くべき一致があるのに気づかされます。
   エリシャの先駆者エリヤが預言のミニストリーに従事した時代は、イスラエルの宗教、文化、政治的危機の時代でした。イスラエルの王オムリは、フェニキヤとの関係を強化するために息子アハブをツロの王エスバールの娘イゼベルに政略結婚させたのでしたが、このことは唯一神を遵奉してきたイスラエルに大転換期をもたらすことになります。ソロモンが自分の異邦人妻たちのためにエルサレムに異教神の神社を築いたように、アハブは首都サマリヤにイゼベルのために、ツロの守護神バール・メルカートの「バールの宮」を築き、祭壇、アシュラ母神像を置いたのでした。アハブが取り入れたイスラエルの神と同時に異教神を拝むという合同崇拝、宗教的寛容は、バール崇拝に熱狂的な伝道者イゼベルにつけ入れられ、バールの預言者たち、偶像、異教の儀式、慣習がせきを切ったようにイスラエルに持ち込まれることになったのでした。大預言者エリヤの後継者としての召命を神から受けたエリシャは、エリヤとは一線を画するミニストリーを始めることになります。エリヤの奇蹟、旧約時代の奇蹟は、概して倫理的、道徳的理由付けができる神の人間史へのご介入でしたが、エリシャによって行なわれた奇蹟は人間的思惑、理由付けを越えた神のご介入、神の秘儀でした。イスラエルの六人の王に仕え、六十余年の長期に亘るミニストリーに従事し、神の預言者育成、国家間の平安、民の福祉のため献身し、おそらく九十歳近くの長寿を全うしたエリシャの生きざまには、イエス・キリストに共通した隣人への愛の奉仕、忍耐が見られるのです。
   エリヤからエリシャへのバトンタッチは、エリヤの許でほぼ十年に亘る使徒訓練を受けた後、ヨルダン川で竜巻に乗って昇天して行く師の外套を受け取るという劇的な行為によって執り行われます。「あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように」、すなわち、エリヤの正規の後継ぎとして長子の特権を求めたエリシャは、師の三回に亘る忠誠心、忍耐力を試すテスト―べテルに...エリコに...ヨルダンへ...―に合格しなければなりませんでした。預言者仲間の「エリヤなしでやって行けるのか?師の重責を負えるのか?」という意を含んだ嫉妬とも挑戦とも励ましとも取れる再三再四の横槍に、意志をくじかれそうになりながらも忍耐強くエリヤに食い下がったエリシャに、ついにヨルダン川を対岸まで渡るというチャンスが与えられます。岸のほとりでほくそえんで成り行きを見守っている仲間を尻目に、対岸に渡ったエリシャにエリヤは、長子の特権を授けるのは師エリヤの出来ることではなく、神の業であることを告げ、主のみ旨を仰ぐようにと言い残し昇天します。どんな武器、武者にも勝ってイスラエルを「神の言葉」を取り次ぐことによって守った預言者エリヤを、心底から敬愛し、今悲痛な思いで、「わが父。わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち。」と叫んで天に送ったエリシャは、しかし悲しんでばかりもおれません。一人立ちしなければならない時が来たのです。眼前に広がるヨルダン川に、一人対岸に残されたという現実に戻されたエリシャは、「主は、どこにおられるのですか。」と主を仰ぎ、エリヤの外套で水を打ち、仲間たちの見守る所へ戻ったのでした。エリシャの信仰による奇蹟は、「エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている」と、仲間たちの目を開くことになり、エリシャのミニストリーはスタートしたのです。モーセも、使徒パウロも本格的なミニストリーを始めるまでにそれぞれ四十年、十年と忍耐、訓練、奉仕の時を過ごしたのでしたが、エリシャも例外ではありませんでした。主がご自分の働き人を備えられる期間は、主に絶対的に信頼することを学ぶ時でもあるのです。イエスも十八年間、家業の土建業に従事された後、神のタイミングの時にヨルダン川で旧約の最後の預言者とみなされている洗礼者ヨハネから洗礼を受けられることにより、人類の救い主としての働きを始められたのでした。このイエスの受洗と、エリシャのミニストリー就任の出来事との間には驚くべき関連が見られるのです。
   洗礼者ヨハネはヨルダン川で「悔い改めのバプテスマ」を授けていましたが、これは、ユダヤ教で実践されていた『ミクベー』―生ける流水による全身の清め―に基づいた儀式でした。ヨハネによる洗礼儀式は、ユダヤ教の掟に則って、次のように行なわれていたと考えられます。すなわち、ヨルダン川の東岸に立ったヨハネの招きで受洗希望者たちは、西岸から川の中に入りヨハネの許まで行き、そこで向きを変えてヨルダン川を再び横切って西岸に戻るという儀式でした。方向を変えるということは悔い改めを象徴する行為で、スタート地点の西岸に戻り水から一歩踏み出した時には、新しく生まれ変わったとみなされたのでした。しかし言うまでもなく、このユダヤ式のバプテスマは上からの新生ではなく、神、他人との歪められた関係の修復、自らの過去、現在の罪からの刷新に留まるものでしかありませんでした。ユダヤ教が改宗者たちに施していたこの水によるバプテスマが、イエスの名による上からの、すなわち聖霊によるバプテスマと違うのは明らかです。ヨハネはイエスを「聖霊と火とのバプテスマ」を授ける方と紹介し、「人は天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。...あの方(イエス)は盛んになり私は衰えなければなりません」(ヨハネ3:27〜30)と、自らの施しているバプテスマが過渡的なものであることを認めた上で、神のみ旨を第一優先としたイエスに洗礼を授けたのでした。聖書ではヨルダン川は分離、死の象徴として用いられていますが、イエスにとってもエリシャにとってもヨルダン川での聖霊の油注ぎによる新生の体験が、自我に死に、神の救いの業に専念する人生への転機となったのです。ヨシュアが劇的な神のご介入によってヨルダン川を渡ったのも、なるほど救いの業を完成するため約束の地に入る直前だったのでした。

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This month a money gift has been sent to IBS to help El Salvador's earthquake survivors. The earthquake on 19th January this year left the smallest nation in Central America devastated; hundreds dead, thousands injured and hundreds of thousands homeless. While survivors face the struggle of reconstructing their lives, there is reported to be an increase in spiritual openness towards God's Word. Pray for their soul's salvation as well as their physical relief. May our merciful Lord turn their adversity to His divine appointments.
Japanese seismologists warn of a big earthquake reaching up to magnitude 8 on the Richter scale shaking the Tokyo region along the Tokai fault line (14 April 2001 No.2286 New Scientist). They are also concerned about recent earthquakes under Mt. Fuji, pointing out that magma is rising. The earthquake accompanied by eruption of Mt. Fuji would without doubt devastate the major political, economic and social functions in Tokyo. In the Bible natural disasters are interpreted as a sign through which God speaks to the nations. The prophets, connecting disasters to sins, warned people to return to God with repentance. With the recent globally increasing frequency of earthquakes and other natural and human disasters than ever, we must realise that we are running into more problems unless we acknowledge our wrong relations with God and repent. We cannot change the course of God's plan, however, we can participate in prayers so that His will alone will effectively be done on earth.

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