ULDAH MINISTRY

LETTER TO THE BROTHERS AND SISTERS IN CHRIST

わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。

イザヤ65:1

第68号  2001 年5月 25日


  この町(エリコ)の人々がエリシャに言った。「あなたさまもご覧のとおり、この町は住むのには良いのですが、水が悪く、この土地は流産が多いのです。」すると、エリシャは言った。「新しい皿に塩を盛って、私のところに持って来なさい。」人々は彼のところにそれを持って来た。エリシャは水の源のところに行って、塩をそこに投げ込んで言った。「主はこう仰せられる。『わたしはこの水をいやした。ここからは、もう、死も流産も起こらない。』」こうして、水は良くなり、今日に至っている。エリシャが言ったことばのとおりである。
                                          列王記下2:19〜22

   預言者エリシャとイエス・キリストの働きの類似性をエリシャの初期のミニストリーから見て行きたいと思います。イエスがミニストリーを始められる直前、洗礼者ヨハネはヨルダン川東岸のベタニヤ(エルサレム郊外のベタニヤとは別地点)で、悔い改めのバプテスマを施していました。ある日、イエスが洗礼を受けるため近づいて来られるのを見たヨハネは、霊に感じて、「私はその方のくつのひもを解く値うちもありません」、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。私が『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ』と言ったのは、この方のことです」(ヨハネ1:27、:30)と、イエスを救い主としてこの世に告げ知らせたのでした。罪のないイエスに悔い改めのバプテスマを施すことを拒んだヨハネにイエスは、「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」(マタイ3:15、下線追加)と、義なる神のみ旨を実践することが神に従う者の歩みであることを教えられ、洗礼を受けられたのです。このようにして、神の国の教えを自ら実践、手本を示されることによって、イエスのガリラヤ地方でのミニストリーが始まったのでした。ガリラヤのカナでの結婚式で、水を上質のぶどう酒に変えられたのが、イエスの最初の奇蹟でしたが、同様に、時代をさかのぼりイスラエル南北分裂王朝の時代、エリヤの後継者としてエリシャが最初に取り組んだのは、エリコで流産、死の原因になっていた悪質な水を良質の水に変えることでした。
   預言者イザヤは、「地は嘆き悲しみ、衰える。世界はしおれ、衰える。天も地とともにしおれる。地はその住民によって汚された。彼らが律法を犯し、定めを変え、とこしえの契約を破ったからである。それゆえ、のろいは地を食い尽くし、その地の住民は減り、わずかな者が残される」(イザヤ24:4〜6)と、環境汚染の原因が、神の定められた自然の秩序に逆らって文明を築き上げてきた人間の罪にあることを指摘したのでしたが、確かに最初の人類の堕落、すなわち神のご命令への反逆の直後に、痛み、苦しみ、病、疫病、不妊、不毛、退化、腐敗、死等々、「のろい」の現象が始まったのでした。人間の道徳、倫理観と自然環境とに密接な関係があることは、旧約の預言者たちと同じく、イエスの教えの中でも、また弟子ヨハネに示された啓示の中でも語られていますが、ここでエリシャの象徴的行為に示唆されているのは、公害の元凶になっていた、不道徳、誇り、貪欲の形を取って現われる『人間の罪』に、メスが入れられたということでしょう。後にイエスが弟子に語られた、この世の汚染、腐敗、堕落を食い止める働きをする、「地の塩」としての塩味を失うことがないようにという警告は、エリシャがエリコの水源の汚染を、混濁したり古くなって効き目が失われていない『新しい塩』で食い止め、癒したというこの先例―環境の改善、肉の癒しが霊の癒しによってもたらされる―を、思い起こさせるものではなかったでしょうか。塩味のあるクリスチャンの行く先々で人々がこの世の災いから解き放たれ、同時に罪から解放され、魂が救われるようにと、イエスは弟子たちを世界伝道に送られたのでした。イエスの教えは、個々人への神の国への招きであり、組織化された宗教機構とは、何ら関係がないことは明らかです。ここで、イエスとエリシャのミニストリーのもう一つの共通点は、エリシャの発した言葉、「主はこう仰せられる。『わたしはこの水をいやした。ここからは、もう死も流産も起こらない。』」によって、神の業がなされたという点です。エリコの涌き水は今日でも甘く、 『エリシャの泉』と言われているそうですが、神の言葉を託された者のミニストリーには、一時しのぎではない永続する、神の力ある業を見ることができるのです。 
   その後エリシャがエリコからべテルを通ってカルメル山に行き、再び南下してサマリヤに来ていた時、イスラエルの王ヨラムは、ユダの王、エドムの王と三カ国連合し、モアブを攻撃する策略を立てていました。モアブ王メシャが、父アハブの在世中はイスラエル王朝に羊と羊毛を貢ぎ物として納め、忠誠をつくしていたのに、アハブの死を期に反旗を翻したことに対する怒りが、イスラエル人を動員、急な戦闘体制へとヨラムを駆り立てたのでした。メシャを出し抜くため、エドムに隣接する南の国境からモアブを攻撃することに決めた王は、七日間も回り道をして荒野を行軍しますが、無理な作戦はすぐに座礁に乗り上げます。水不足という深刻な問題に直面し、モアブに反撃されるかもしれない危機に陥ったヨラムは、イスラエルの真の王であられる主を無視した自らの不信仰を顧みるでもなく、むしろ、「主が三人の王を召されたのはモアブの手に渡すためだった」と責任を主になすり付けます。そのような折、主のみ旨を求めることのできる主の預言者はいないのかと、まず主に立ち返ることを主張したのはユダの王ヨシャパテでした。「エリヤの手に水を注いだ者」(列王記下3:11)、すなわち、故大預言者エリヤに忠実に弟子奉公した者エリシャがいるという情報を得たヨシャパテが、エリシャを主の真の預言者と認めたことにより、王たちの目はエリシャに向けられます。しかし、エリシャから返ってきたのは、「私とあなたとの間に何のかかわりがありましょうか。あなたの父上の預言者たちと、あなたの母上の預言者たちのところにおいでください」(3:13)という、不信仰な者を突き放すかのような冷たい返事でした。それはこの世の誰にも、また権威、力、富の何れにも妥協しない、神のみを恐れる預言者の毅然たる態度でした。しかし他方で、「私が仕えている万軍の主は生きておられる。もし私がユダの王ヨシャパテのためにするのでなかったなら、私は決してあなた(ヨラム)に目も留めず。あなたに会うこともしなかったでしょう」(3:14)と、そこに一人でも信じる者がいるなら、答えて下さる神の本質がエリシャにも反映されていたのでした。
   人間に天の父なる神を顕わすため、人間となられて地上でのミニストリーに献身された御子イエス・キリストのあの異邦人の女に対するアプローチは、このエリシャのミニストリーを思い起こさせるものでした―それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘がひどく悪霊に取りつかれているのです。」しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください。」と言った。すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った(マタイ15:21〜28)。エリシャ、イエスに共通に見られた、願い求める者に対し一見無感動に突き放し拒絶するかのような対応は、実際はそれにどのように反応するかによって、その人の信仰、動機を知るためのテストだったのです。エリヤの突き放す対応にすかさず、「いや、主がこの三人の王を召されたのは、モアブの手に渡すためだから」(3:13)と、不信仰な返事をしたヨラムは言うまでもなく失格です。自分の両親アハブとイゼベルが信奉していた偶像の神々であろうと、偽預言者たちであろうと、またイスラエルの神、あるいは主の預言者たちであろうと、どちらに頼ってもどうせ無意味なことと、ヨラムは思ったのでしょう。もしその場に、見えない神を求める信仰姿勢を示したヨシャパテがいなかったなら、主が語られることはなかったでしょう。イエスがカナで奇蹟を行なわれた時にも同じようなアプローチが取られたのでした―それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。すると。イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」(ヨハネ2:1〜5)。この時、もし母マリヤがイエスの他人行儀な対応に感情的に反応し、この世の人間レベルの視点から母親としての権威をかざすような口答えをしていたなら、水が上質のぶどう酒に変わるという神の奇蹟は起こらなかったでしょう。救い主イエスの両親、すなわち、法律上の父ヨセフと実母マリヤには、イエスの言動が必ずしも理解できたわけではなく、子育ての過程において他人には理解できないような悩みがあったことを福音書は示唆していますが、ルカは、「マリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた」、「母はこれらのことをみな、心に留めておいた」と、マリヤが神との対話を通して諸問題を解決していた、祈りの人であったことを証しているのです。「父のみ旨を行なって行くことがわたしたちには相応しいのです」と、率先して父のみ旨に忠実に生きる模範を示されたイエスに倣って、マリヤも、神の国と義を求めることを第一優先とした信仰の人だったのです。さて、三人の王たちへのエリシャのミニストリーは続きます。

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This month a money gift has been sent to FREDERIC' s ministry in Kenya. He shall be going on an evangelical trip to Kakuma Refugee Camp in June. Pray that those in need will be filled with material and spiritual blessings and that the Lord will work out His salvation through the precious bearers of His heart.
Pray that only the Father's will be done on earth through various means, believing that He can turn everything into His opportunity even through natural disasters. According to the reports from IBS, God's Word is impacting indigenous people in an otherwise tough area of evangelism, in the wake of the earthquakes in India on 26th January and in El Salvador on 19th January this year. Pray that the millions of survivours in both areas will be fed on the Word of God that gives believers eternal life as well as on physical needs and also for rehabilitating work being done effectively.

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