ULDAH MINISTRY

LETTER TO THE BROTHERS AND SISTERS IN CHRIST

わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。

イザヤ65:1

第69号  2001 年6月 29日


  (エリシャ)は次のように言った。「主はこう仰せられる。『この谷にみぞを掘れ。みぞを掘れ。』主がこう仰せられるからだ。『風も見ず、大雨も見ないのに、この谷には水があふれる。あなたがたも、あなたがたの家畜も、獣もこれを飲む。』これは主の目には小さなことだ。主はモアブをあなたがたの手に渡される。あなたがたには、城壁のある町々、りっぱな町々をことごとく打ち破り、すべての良い木を切り倒し、すべての水の源をふさぎ、すべての良い畑を石ころでだいなしにしよう。」朝になって、ささげ物をささげるころ、なんと、水がエドムのほうから流れて来て、この地は水で満たされた。モアブはみな、王たちが彼らを攻めに上って来たことを聞いた。よろいを着ることのできるほどの者は全部、呼び集められ、国境の守備についた。彼らが翌朝早く起きてみると、太陽が水の面を照らしていた。モアブは向こう側の水が血のように赤いのを見て、言った。「これは血だ。きっと王たちが切り合って、同士打ちをしたに違いない。さあ今、モアブよ、分捕りに行こう。」彼らがイスラエルの陣営に攻め入ると、イスラエルは立ってモアブを打った。モアブはイスラエルの前から逃げた。それで、イスラエルは攻め入って、モアブを打った。さらに、彼らは町々を破壊し、すべての良い畑にひとりずつ石を投げ捨てて石だらけにし、すべての水の源をふさぎ、すべての良い木を切り倒した。ただキル・ハレセテにある石だけが残ったが、そこも、石を投げる者たちが取り囲み、これを打ち破った。モアブの王は、戦いが自分に不利になっていくのを見て、剣を使う者七百人を引き連れ、エドムの王のところに突き入ろうとしたが、果たさなかった。そこで、彼は自分に代わって王となる長男をとり、その子を城壁の上で全焼のいけにえとしてささげた。                                     列王記下3:16〜27a
   ユダの王ヨシャパテのためにエリシャが神のみ旨を求めると、主は、死海の南エドムの地、ユダとモアブの高地の間に広がるアラバの谷に溝を掘ることを命ぜられたのでした。理屈はさておき、主が語られたように溝を掘りさえずれば、荒野に水が湧き出し、水不足が解消され、モアブへの勝利も約束されたのです。窮地に立たされていたイスラエル、ユダ、エドムの三人の王は、この時ばかりは信仰で結束し、溝掘りに全力を注ぎます。その結果は、確かに預言の成就でした。神が奇蹟を行なわれるとき、自然現象、人間の錯覚、間違った類推、それらによって引き起こされる混乱が複雑に関わって、人間にはとても予測出来ない事態へと発展するものですが、この時
モアブを襲った敗北は、だれも前もって筋書きを描くことのできないものでした。追い詰められたモアブの王が、モアブの主神ケモシュの天助を願って、長男を人間犠牲として捧げざるを得なかったということは何とも悲しい結末でした。人間の手が作り上げたにすぎない偶像に人間を捧げ、神の怒りを静めようとすることほど理の通らない馬鹿げたことはないのですが、出来事の背後に邪悪な、この世の支配者サタンとその手下、悪霊が働いているために、人間は往々にして盲目状態に置かれ、理不尽なことも宗教という名目の下に、ただ自らの宗教心、満足感を満たすために守り続けていることが多いのです。目に見えない神を目に見える形で求める崇拝形態が宗教ですが、宗教が制度化するにつれ、人間の哲学、思想、観念、感情がますます独自の神を作り上げてしまうという罠があることに気付いている人たちはどれほどいるでしょうか。イザヤは、「あなたがたは、神をだれになぞらえ、神をどんな似姿に似せようとするのか。鋳物師は偶像を鋳て造り、金細工人はそれに金をかぶせ、銀の鎖を作る。貧しい者は、奉納物として、朽ちない木を選び、巧みな細工人を捜して、動かない偶像を据える。」「だれが、いったい、何の役にも立たない神を造り、偶像を鋳たのだろうか。見よ。その信徒たちはみな、恥を見る。それを細工した者が人間にすぎないからだ。」「あなたがたがどんなに多く呪術を行なっても、どんなに強く呪文を唱えても、...破滅はあなたの知らないうちに突然あなたにやってくる。...あなたに助言する者が多すぎて、あなたは疲れている。さあ、天を観測する者、星を見る者。...あなたを救わせてみよ。」と、人間の作り上げる神の無意味さ、占星術など占いに頼る愚かさを繰り返し警告し、災禍の時には動けない偶像を人間が救わねばならず、むしろそれらが疲れた人間、動物の重荷になることはあっても、助けには決してならないことを苦々しく描いて来たのでした。
   引き続きエリシャが行なった奇蹟は、死活に関わる危機にあっても最後まで御霊の導きに信頼し、従順に歩み、生きようとする者には、祝福をもたらされる神のご介入があることを証ししたものでした―預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んでで言った。「あなたのしもべであるわたしの夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。あなたには、家にどんなものがあるか、言いなさい。」彼女は答えた。「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」すると、彼は言った。「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも一つ二つではいけません。家にはいったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。」そこで、彼女は彼のもとから去り、子どもたちといっしょにうしろの戸を閉じ、子どもたちが次々に彼女のところに持って来る器に油をついだ。器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。「もっと器を持って来なさい。」子どもが彼女に、「もう器はありません。」と言うと、油は止まった。彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」(列王記下4:1〜7)。
   アハブの治世時、王宮に仕えていたオバデヤは、陰ながら主の預言者たちを支援し、アハブの妻イゼベルが、フェニキアからバアル神に仕える異教の偽預言者たちを大勢導き入れ、イスラエルの預言者にとって代わらせようとした迫害のとき、主の預言者たちをかくまい、養った信仰の人でした。夫の死後、妻に残されたのは聖霊の存在を象徴する「油のつぼ一つ」と、二人の子どもだけでしたが、負債返済のため子どもが奴隷として連れ去られようとしていたのでした。イスラエルの掟では、同族の者を奴隷の身分として売買したり、同族の者に貸した金、食物から利息、利得を取ることは禁じられていましたから、貸し主が喪中の無力な母子に威嚇で迫ったということは、膨大な借金が残されていたということでした。使徒パウロは、キリストによって自由を得させられた者クリスチャンが、生活のすべての領域において、「奴隷のくびきを負わせられないように」生きることを奨励していますから、この世に借金のある生活は、物質的だけでなく霊的にもこの世に束縛されているということで、もしクリスチャンが文字通り自由、神のみ旨に生きようとするなら、その生き方は、「だれに対しても、何の借りもあってはいけません」の一語に要約されることになるのです。では、主を敬い、恐れて生きたオバデヤのような神の人がなぜ、負債に負われ、残すような生活をしたのでしょうか。自らの貪欲のためであったなら、神の祝福を期待できるはずはありませんから、何か理由があるはずです。列王記の著者は、「イゼベルが主の預言者たちを殺したとき、オバデヤは百人の預言者を救い出し、五十人ずつほら穴の中にかくまい、パンと水で彼らを養った。」と明記しています。実際、迫害の最中にあって、オバデヤは主の預言者たちの命を借金という負担だけでなく、自らの命をもかける危険を冒して救ったのでした。イエスは弟子たちへの最後のメッセージの中で、「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」と語られましたが、イエスに従う者が多くの実を結ぶということは父なる神が栄光を受けるということでした。ですから、主に栄光を帰して亡くなったオバデヤの未亡人と子どもに、主は豊かな報酬でもって報われたのでした。
   ここで、主の御霊によって歩もうとする受け入れ姿勢のあるところ、受け入れようとする個々の器がすべて満たされるまで、神の注ぎの油、聖霊が注がれるという象徴的行為を通して主が語られたのは、一人の貧しい、しかし従順な主の器、、すなわち、主のしもべから、主にある祝福がこのようにして求めるすべての者へと伝えられ、広がって行くということではなかったでしょうか。霊的な祝福がこの世で生活して行くに必要十分な物質的祝福をももたらすということで、この奇蹟は締めくくられています。ここで子どもたちが、エリシャが母親に命じた仕事に積極的に協力して役割を担っていることから、親から子への大切な信仰継承の姿も窺えるのです。イエスは、「もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、私の名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」と、主にある交わりの力を語られ約束されましたが、福音の輪が、主の名において集まる、心を一つにしたこのような小さな群れから広がることを、教えられたのでした。この輪は求める器が絶えない限り、尽きない聖霊の注ぎによって、広がり続けて行くことでしょう。
   しかし主の大いなるみ業を期待するとき何にも増して大切なのは、三人の王たちの例、オバデヤの妻子の例に見られるように、主のご命令に従い、最初の信仰のステップをまず疑わずに踏み出す、ということです。また後者の例は、たとい最初の信仰の歩みが個人、家族という小さな閉じられた空間で個人的に始められたものであっても、聖霊の力が満ち始めると神の働きは自然に公の知るところとなり、宣伝、会員集めに奔走、時間を割く必要がないことを語っているかのようです。主の民の群れが主ご自身の働きによってこのように広がって行くのだとすれば、この教えから今日の教会の在り方、伝道姿勢に正しい方向性が与えられるのではないでしょうか。

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This month a money gift has been sent to MARY JANE for her ministry to the disadvantaged children. She went back to the Philippines this month after a one year stay in Kent where she was given some opportunities to give testimonies about her ministry in the Philippines. She has been equipped as a qualified child carer both spiritually and practically through her experiences. Pray for the Lord's guidance upon her and also His salvic work through her ministry. The foundation of the believing community lies in each Christian family. Building up children with absolute biblical standards so that they will be able to distinguish between right and wrong is essential for a sound society in the future. Pray for MARY JANE and her co-workers' appropriate outreach to their parents as well.

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