ULDAH MINISTRY

LETTER TO THE BROTHERS AND SISTERS IN CHRIST

わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。

イザヤ65:1

第70号  2001 年7月 27日


  それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちと大ぜいの人の群れがいっしょに行った。イエスが町の門に近づかれると、やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところであった。町の人たちが大ぜいその母親につき添っていた。主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい。」と言われた。そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、「青年よ。あなたに言う。起きなさい。」と言われた。すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された。人々は恐れを抱き、「大預言者が私たちのうちに現われた。」とか、「神がその民を顧みてくださった。」などと言って、神をあがめた。      ルカ7:11〜16

   新約聖書は、イエスが死人を甦らされた三つの例─女やもめのひとり息子の甦り、会堂管理者ヤイロのひとり娘の甦り、ラザロの甦り─を記述していますが、最初の甦りの業が成されたのはナインという町でした。一口に甦りといってもこれら三例は、後にイエスご自身が実証された『肉体から朽ちない霊の体、永遠の命』への甦りではなく、『肉の体から同じ肉の体、朽ちるべき地上の体』への甦りでした。時代をさかのぼって、エリシャがある裕福な女のひとり息子を甦らせたのはやはりナインから幾ばくも離れていないシュネムの町でのことでした。
   エリシャがシュネムの町を通る度にこの女は、神の業に献身している預言者を食事に招き、ついには自宅の屋上にエリシャの宿泊できる部屋まで作って神の人をもてなしたのでした。彼女の報いを望まない骨折りに報いたいと思ったエリシャは「ほんとうに、あなたはこのように、私たちのことでいっしょうけんめいほねおってくれたが、あなたのために何をしたらよいか。」と尋ねます。女の答えは、「私は私の民の中で、しあわせに暮らしております。」と、自分が置かれている状態に満足し、他人との比較から生ずるうらやみ、嫉妬、強欲とは無縁な、神を仰ぎ見る充実した人生の信仰告白でした。なるほど、大きな家、安定した収入、幸せな結婚生活、すべての物質的満たし...と、この中産階級の夫婦はこの世が与えることの出来るすべてに満たされているかのようでした。実際、当時女にとって最大の祝福のしるしとみなされていた胎の実り、多産の恵みに与かっていなくても、神を知ることを最大の喜び、誇りとしていた彼女にとって、彼女の神に対する信頼、確信を揺るがすものは何もなかったのです。しかし、従者ゲハジの「彼女には子どもがなく、それに彼女の夫も年をとっています。」という情報を得てエリシャは、この女に男の子が与えられることを告知します。約束通り、神の恩寵によって女は子どもを産み、健やかに成長して行く子どもが加わってますます幸せな家庭生活が始まろうとしていた矢先、こともあろうに子どもの突然死という不幸のどん底に陥れられます。神に最も忠実であるとみなされた義人ヨブが相次ぐ原因不明の災い、肉体の懲らしめに耐えなければならなかったように、人生には、理由のない、より正確には、人間の側からは全く理由付け出来ない不幸のどん底に落とされることがあるものです。そのような中で、この女がまず求めたのは、この世の手段ではなく、神その方でした。神の人エリシャを通して神ご自身がご介入して下さると信じた女は、ひとり息子の死に直面して、不信仰な者の目には不可解な行動をとります:その子が、大きくなって、ある日、刈り入れ人といっしょにいる父のところに出て行ったとき、父親に、「私の頭が、頭が。」と言ったので、父親は若者に、「この子を母親のところに抱いて行ってくれ。」と命じた。若者はその子を抱いて、母親のところに連れて行った。この子は昼まで母親のひざの上に休んでいたが、ついに死んだ。彼女は屋上に上がって行って、神の人の寝台にその子を寝かし、戸をしめて出て来た。彼女は夫に呼びかけて言った。「どうぞ、若者のひとりと、雌ろば一頭を私によこしてください。私は急いで、神の人のところに行って、すぐに戻ってきますから。」...こうして、彼女は出かけ、カルメル山の神の人のところへ行った。神の人は、遠くから彼女を見つけると、若い者ゲハジに言った。「ご覧。あのシュネムの女があそこに来ている。さあ、走って行き、彼女を迎え、『あなたは無事ですか。あなたのご主人は無事ですか。お子さんは無事ですか。』と言いなさい。」それで彼女は答えた。「無事です。」それから、彼女は山の上の神の人のところに来て、彼の足にすがりつた。ゲハジが彼女を追い払おうと近寄ると、神の人は言った。「そのままにしておきなさい。彼女の心に悩みがあるのだから。主はそれを私に隠され、まだ、私に知らせておられないのだ。」彼女は言った。

「私があなたさまに子どもを求めたでしょうか。この私にそんな気休めを言わないでくださいと申し上げたではありませんか。」そこで、彼はゲハジに言った。「腰に帯を引き締め、手に私の杖を持って行きなさい。たといだれに会っても、あいさつしてはならない。また、たといだれがあいさつしても、答えてはならない。そして、私の杖をあの子の顔の上に置きなさい。」その子の母親は言った。「主は、生きておられ、あなたのたましいも生きています。私は決してあなたを話しません。」そこで、彼は立ち上がり、彼女のあとについて行った。ゲハジは、ふたりより先に行って、その杖を子どもの顔の上に置いたが、何の声もなく、何の応答もなかったので、引き返して、エリシャに会い、「子どもは目をさましませんでした。」と言って彼に報告した。エリシャが家に着くと、なんと、その子は死んで、寝台の上に横たわっていた。       列王記下:18〜32
   この短い状況描写から、この女が神の掟に則った信仰生活を実践していたことが窺えるようです。まず、夫は、おそらく妻の信仰を容認していた未信者のようですが、夫が家族を経済的に支え、この世、社会での責任を果たし、妻が家庭の管理、子育ての責任を担うという聖書的原則が生かされています。物事の最終決断を下すのは一家の指導権を持つ夫で、その寛容なリーダーシップの下で、妻に信仰、行動、家庭教育、家僕への采配の自由、権限が許されているのです:しっかりした妻をだれが見つけることができよう。彼女の値打ちは真珠よりもはるかに尊い。夫の心は彼女を信頼し、彼は、「収益」に欠けることがない。...彼女は夜明け前に起き、家の者に食事を整え、召使の女たちに用事を言いつける。...彼女は家の者のために雪を恐れない。家の者はみな、あわせの着物を着ているからだ。...夫は町囲みのうちで人々によく知られ、土地の長老たちとともに座に着く。...彼女は口を開いて知恵深く語り、その舌には恵みのおしえがある。彼女は家族の様子をよく見張り、怠惰のパンを食べない。...麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。彼女の手でかせいだ実を彼女に与え、彼女のしたことを町囲みのうちでほめたたえよ。」(箴言1:10〜31) 夫が社会で精一杯働けるように安らぎを与える家庭環境を整え、相応しい助け手として妻が陰ながら夫を支えるという日本古来の教え、『内助の功』は、まさに聖書的原則、創造の秩序なのです。
   子どもの死を知ったこの女は、エリシャのために備えた部屋の寝台に子どもを寝かせ、夫の承諾を得た後、25マイル離れたカルメル山のエリシャの許へ向かいます。神の人エリシャに彼女が直面している大変な苦悩、悲しみを直接訴えるまでは、夫にもエリシャの従者ゲハジにも子どもの死を告げないという彼女の異様な、しかし象徴的な行動パタンは、絶望のどん底から神を求めた信仰の表れだったのでした。彼女にとって、子どもの生死、行く末を支配しておられ、死んだ者を甦らせることの出来る唯一の方は神だけで、この緊急の時に他のことに構っている余裕はなかったのです。彼女の苦悩を知ったエリシャはゲハジに、神の子どもの命の執り成しをする癒しのミニストリーに、わき目もふらず全身全霊を傾けて従事するよう指示しますが、霊的洞察で人を見分ける賜物が与えられていた彼女は、ゲハジを信用しません。イエスが、他人より自分を優れた者としたがり、他人に与えられている賜物に嫉妬し、「先生。私たちは、先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、やめさせました。私たちの仲間ではないので、やめさせたのです。」(ルカ9:49 下線付加)と訴えたり、誰が一番偉いかと競い合ったりするような神の言葉を実践していない不信仰な弟子たちを通しては、神は、力ある奇蹟、癒し、徐霊の業を行なわれないことを諭されたように、この世のことに心を奪われることなく、祈りと断食を通して真剣に神を求める、その類の信仰が介在しなければ、奇蹟は起こり得ないのでした。
   彼女の執拗な求めに応じてついにエリシャ自身が、死んだ子どものために執り成すことになります。エリシャにすがりつこうとした彼女を追い払おうとした、求める者に対し愛のない態度をとった不信仰なゲハジは、彼女の洞察通り、師から仰せつかった役目を形式的に務めただけで、不成功に対し感情的に取り乱されることもなく、何の実りもなく戻って来ます。ゲハジとは違って、エリシャのこの信仰深い母と子に対する愛と憐れみは、死んで寝台に横たわる子に、全身全霊を注ぐミニストリーへとエリシャを駆り立てます:エリシャは中にはいり、戸をしめて、ふたりだけになって、主に祈った。それから、寝台の上に上がり、その子の上に身を伏せ、自分の口を子どもの口の上に、自分の目を子どもの目の上に、自分の両手を子どもの両手の上に重ねて、子どもの上に身をかがめると、子どものからだが暖かくなってきた。それから彼は降りて、部屋の中をあちら、こちらと歩き回り、また、寝台の上に上がり、子どもの上に身をかがめると、子どもは七回くしゃみをして目を開いた。   列王記下4:33〜35
   神の御旨を聞きながら実行に移すと言うエリシャの全力投球のミニストリーは実を結び、死んだ子どもは甦ります。エリシャの杖は、権威を象徴するものですが、ゲハジのように神の人に奉仕する者でありながら貪欲、無慈悲で、神との正しい関係にない霊的に死んだ者が、どんなに杖を振りかざしても死んだ者の心を動かすことは出来ないのです。大人と違って小細工の効かない幼子の心を動かすものは非人間的な権威の杖ではなく、エリシャのミニストリーに反映されているように、愛と憐れみの心で自らを全力投球する人間との接触なのです。この話しの背後に語られているのは、霊的に死んだ者の甦りに必要なものは権威をかざした人間の教え、機械的、事務的な御言葉の取次ぎではなく、人間との温かい交わりを通して御言葉が実践されることであるということなのかもしれません。神は神の似姿を正しく反映しているすべての信者を通して神の業を行なわれ、あるいは、その者たちの回りには神の業が起こり、偽りのミニストリーは、真の愛のみに敏感に反応する幼子を騙すことが出来ないように、病んでいる者、悩んでいる者に、真の解決、主の甦りの力を与えることは出来ないのです。

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This month a money gift has been sent to IBS to support their project to feed earthquake survivors in India on the Word of God. It is said that the earthquake which shook the Indian state of Gujarat on 26th of January this year had destroyed more than half-a-million homes. Many were buried alive. Among survivors a spiritual hunger is continuously growing and they are opening their hearts to the truth written in God's Word. What a privilege it will be to come along with our brothers and sisters in the Lord in India and to help earthquake survivors through our prayers and financial support! May the Father's will be done even through human tragedies.

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