ULDAH MINISTRY

LETTER TO THE BROTHERS AND SISTERS IN CHRIST

わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。

イザヤ65:1

第71号  2001 年8月 24日


  エリシャは、かつて子どもを生き返らせてやったあの女に言った。「あなたは家族の者たちと旅に立ち、あなたがとどまっていたい所に、しばらくとどまっていなさい。主がききんを起こされたので、この国は七年間、ききんに見舞われるから。」そこで、この女は神の人のことばに従って出発し、家族の者を連れてぺリシテ人の地に行き、七年間滞在した。七年たって後、彼女はぺリシテ人の地から戻って来て、自分の家と畑を得ようと王に訴え出た。そのころ、王は神の人に仕える若い者ゲハジに、「エリシャが行なったすばらしいことを、残らず私に聞かしてくれ。」と言って、話していた。彼が王に、死人を生き返らせたあのことを話していると、ちょうどそこに、子どもを生き返らせてもらった女が、自分の家と畑のことについて王に訴えに来た。そこで、ゲハジは言った。「王さま。これがその女です。これが、エリシャが生き返らせたその子どもです。」王が彼女に尋ねると、彼女は王にそのことを話した。そこで、王は彼女のためにひとりの宦官に命じて言った。「彼女の物は全部返してやりなさい。それに、彼女がこの地を離れた日から、きょうまでの畑の収穫もみな、返してやりなさい。」                                 列王記下8:1〜6             
   エリシャがギルガルに帰って来たとき、この地にききんがあった。預言者のともがらが彼の前にすわっていたので、彼は若い者に命じた。「大きなかまを火にかけ、預言者のともがらのために、煮物を作りなさい。」彼らのひとりが食用の草を摘みに野に出て行くと、野生のつる草を見つけたので、そのつるから野生のうりを前掛けにいっぱい取って、帰って来た。そして、彼は煮物のかまの中にそれを切り込んだ。彼らはそれが何であるか知らなかったからである。彼らはみなに食べさせようとして、これをよそった。みながその煮物を口にするや、叫んで言った。「神の人よ。かまの中に毒がはいっています。」彼らは食べることができなかった。エリシャは言った。「では、麦粉を持って来なさい。」彼はそれをかまに投げ入れて言った。「これをよそって、この人たちに食べさせなさい。」その時にはもう、かまの中には悪い物はなくなっていた。
   ある人がバアル・シャリシャから来て、神の人に初穂のパンである大麦のパン二十個と、一袋の新穀とを持って来た。神の人は、「この人たちに与えて食べさせなさい。」と命じた。彼の召使は、「これだけで、どうして百人もの人に分けられましょう。」と、言った。しかし、エリシャは言った。「この人たちに与えて食べさせなさい。主はこう仰せられる。『彼らは食べて残すだろう。』」そこで、召使が彼らに配ると、彼らは食べた。主のことばのとおり、それはあり余った。
                            列王記下4:38〜44


   ギルガルに起こった飢饉に関連する三つの奇蹟が記されています。これら三つの神の超自然的なご介入に関する出来事に共通するのは、神に依り頼む者への神の完全な守りと備えへの確信です。神への絶対的信頼、信仰によって、また預言者エリシャの憐れみと愛によって子どもが生き返らされるという体験をしたあのシュネムの女に、再びエリシャを通して神の言葉が臨みます。飢饉が起こるから畑、家、所有物のすべてをあとに外地に逃れ、そこに七年間滞在しなさいという警告でした。神のお言葉とはいえ、まだ飢饉が現実のこととなっていない時点で、すべてを残して住み慣れた地を去るということは、多くの物を所有していた女にとって大変な決断を要することでした。しかし女は即座に行動を起こし、イスラエルにとっては長年の敵国であったぺリシテ人の地に落ち延びます。飢饉は神の掟によれば、「もし、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行なわないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。あなたは町にあってものろわれ、野にあってものろわれる。あなたのかごも、こね鉢ものろわれる。...主は、あなたの地の雨をほこりとされる。それで砂ほこりが天から降って来て、ついにはあなたは根絶やしにされる。...」(申命記28章)と、神への反逆に対する神の裁き、呪いの結果もたらされるものでしたから、イスラエルに与えられた乳と蜜の流れる祝福の約束の地から、神の守りがもはや除かれたということでした。従って、神の呪いの下で、約束の地に住むよりは、神の祝福の下で、呪われた異邦人の地ぺリシテに住む方がましだったのです。後にユダの民が国を失いバビロン捕囚に連れて行かれることになったとき、敵の支配に反抗するユダの指導者、民に預言者エレミヤは、むしろ異教の地バビロンに安住することが主の御心であると彼らを説得しようと努めたのでしたが、確かに人生の意義は、国、土地、家、金銭の所有にではなく、神の守り、祝福の下に置かれているか否かにかかっているのです。
   約束の七年が過ぎ、女は家族と共に自国に戻りますが、留守の間に自分の家、畑が不当に他人の手に渡っているのを知らされます。預言者の啓示に従い、未来はすべて神の手中にあると全信頼を神に置いて行動を起こした結果が全不動産の損失ではたまりません。女は、神のご介入がなければまず勝ち目無しと思えた直訴に踏み切ります。果たして、神が不思議な形で女の苦境に答えられたのは、この時でした。おりしも、エリシャのしもべゲハジが、ヨラム王の要望に答えて、エリシャを通して神が成された奇蹟、癒しの出来事の数々を語っていたとき、話しはまさにこの女の子どもの生き返りに及んでいました。その時、話しの主人公である女と子どもが王の前に完全なタイミングで現われたのです。女の直訴は思いもかけない発展を見せることになります。話しの当事者を、しかも蘇生という奇蹟を体験した生き証人を目の前に小躍りした王は、女の訴えをすんなりと受け入れ、宦官を呼び寄せるや、全不動産の返済に加え、過去七年間の畑の収穫に見合うだけの収益を女に返すよう命じたのでした。ソロモン王は、「王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。みこころのままに向きを変えられる。」(箴言21:1)と知恵の言葉を残しましたが、不動産の不法占拠、横領を黙認、おそらくその責任者であった当の王が、この時ばかりは誰も予想だにしなかった慈悲の采配を命じたのでした。神の声、警告に信仰で答えて行くとき、犠牲と代価―この世で獲得したもの、財産、地位、仕事、権利等々の放棄―の道を選ばざるを得ないことがあるものですが、この女の逸話は信仰の行為が必ず主によって報われるということと同時に、正義の神が社会の弱者が不当に不利な立場に立たされるのを見逃されるお方ではないことを教えているのかもしれません。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」(へブル人11:6)
   神の民が、自らの罪のため、あるいは、他人、社会、国家の罪のため、逆境、災い、呪いの下に置かれるということは、この世的な尺度で近視眼的に見るなら、決して喜ばしいことではありませんが、信仰の目は、逆境の中にあっても神の計り知れないご計画が究極的には自分自身をも含めた民の立ち直り、復興にあると、置かれた現状を肯定的に捉えることを可能にしてくれるのです。八方ふさがりだった状態が思わぬ方向に展開したとき、世間では、「たまたま...」とか、「運良く...」と、出来事の背後に何の思惟も働いていなかったかのような表現を用いますが、続くエリシャの二つの奇蹟 ―『取り除かれた毒』と『倍増した食物』― は、神がすべてを司っておられること、信じる者には最善の備えと守りをもって対処して下さる方であることを、一層確信させてくれます。
   ギルガルの地が飢饉に見舞われたとき、師エリシャの指示を仰ぐべく、多くの預言者のともがらが彼の許に集まって来ていました。飢饉で自らの糧食を確保するだけでも大変な時期に、憐れみ深く、寛大なエリシャの配慮と彼のしもべの奉仕によって、彼らの空腹を満たすために何でも食用になりそうなものが集められ、料理されたのでしたが、料理人の意に反して、用意された煮物には野生の毒物が混入してしまったのでした。しかし神のご介入により、当初エリシャが他人への思いやりから意図したことは神によって達成されることになります。ここでは、うりの毒を除く、あるいは中和するために投げ入れられた「麦粉」自体に解毒作用があったというのではなく、神のご介入の手段としてそれが用いられたと解釈出来るようです。かつてエリコの町の水質の悪い水が塩によって良質の水に変えられたエリシャの初期に行なわれた奇蹟と同様に、塩、麦粉は神の業がエリシャの預言的行為を通して顕れるための媒介だったのでした。この逸話は、「社会人になって収入が得られるようになったら、...」「経済的余裕ができたなら、...」「人を招くに相当な家、場が与えられたなら、...」「子どもが成長し、手がかからなくなったなら、...」「自分に必要なものが最低限与えられたなら、...」、人を招いたり、もてなしたり、面倒を見たり、...あれもこれもできるのだが...と、思い巡らして愛の行為を実行に移そうとしない者たちに、神に器として用いられることの真意を教えているようです。神は人間の側の言い訳、あるいは、とり越し苦労とは無縁に、どのような状態に置かれている者をも信仰の担い手として用いられる計り知れない力を持っておられるということです。
   さて、次の逸話は、わずかなパンと魚を倍増させて何千人もの群衆に食物を与えられたイエスの奇蹟を思い起こさせるものですが、洞察と寛大さでエリシャに収穫の初物のすべてを捧げた人が、彼自身の予想を遥かに越えて、多くの預言者たちに肉の糧を与える神の器として大きく用いられることになったのでした。本来ならモーセの律法に準じて祭司の許に持って行くべき収穫の初穂の束をこの人は、鋭い洞察で、貪欲、放縦の生活におぼれていたべテル、ダンの背信の祭司たちの許ではなく、神の真のしもべエリシャの所に持って来たのでした。この人のように霊的堕落の一途にあった北イスラエル王国に残されていたごく少数の神を恐れる者たちを通して、神はエリシャ、預言者のともがらを養われたのでした。主に捧げられるべき初物が堕落した宗教家たちの私用に用いられるのではなく、主のご用のために最大限に用いられることを願って、ギルガルからは少し隔たったエフライムの山地に近い村からはるばるエリシャの許に運ばれたパンと新穀は、この心ある一信徒が意図したように、神の御旨を信仰で表明したエリシャを通して、主の真の預言者たちを養うために用いられたのでした。しかし、もしエリシャが捧げられたものを貪欲にも一人占めして、自らの将来の備えのために確保したり、あるいは、彼の召使と同じく、「これだけで、どうして百人もの人に分けられましょう。」と、疑いを抱いたりしたなら、神の奇蹟は起こらなかったでしょう。神の御旨を第一優先とし、信仰の一歩を踏み出すとき、奇蹟が現実のこととなるのです。この原則を今日の教会、種々のミニストリーに応用するなら、主の御旨を行なって行くミニストリー、教会、主に在る集会には、奇蹟、癒しが伴なわれ、多くの実を結ぶべく、神ご自身が、霊的にも財政的にも維持して下さるということが言えるのではないでしょうか。パウロが語ったように、成長させて下さるのが神であることを本当に信じるなら、神不在の、人間の努力で維持して行こうとするミニストリーが本末転倒であることに気付かされるでしょう。

 

目次