ULDAH MINISTRY

LETTER TO THE BROTHERS AND SISTERS IN CHRIST

わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。

イザヤ65:1

第73号  2001 年10月 26日


  アラムの王がイスラエルと戦っていたとき、王は家来たちと相談して言った。「これこれの所に陣を敷こう。」そのとき、神の人はイスラエルの王のもとに人をやって言った.「あの場所を通らないように注意しなさい.あそこにはアラムが下って来ますから.」そこで、イスラエルの王は神の人が告げたその場所に人をやった.彼が王に警告すると、王はそこを警戒した.このようなことは一度や二度ではなかった.このことで、アラムの王の心は怒りに燃え、家来たちを呼んで言った。「われわれのうち、だれが、イスラエルの王と通じているのか、あなたがたは私に告げないのか。」すると家来のひとりが言った。「いいえ、王さま。イスラエルにいる預言者エリシャが、あなたが寝室の中で語られることばまでもイスラエルの王に告げているのです。」王は言った。「行って、彼がどこにいるかを突き止めなさい。人をやって、彼をつかまえよう。」そのうちに、「今、彼はドダンにいる。」という知らせが王にもたらされた。そこで王は馬と戦車と大軍とをそこに送った。彼らは夜のうちに来て、その町を包囲した。神の人の召使が、朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若い者がエリシャに、「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう。」と言った。すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」と言った。そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。アラムがエリシャに向かって下って来たとき、彼は主に祈って言った。「どうぞ、この民を打って、盲目にしてください。」そこで主はエリシャのことばのとおり、彼らを打って、盲目にされた。エリシャは彼らに言った。「こちらの道でもない。あちらの町でもない。私について来なさい。あなたがたの捜している人のところへ連れて行ってやろう。」こうして、彼らをサマリヤへ連れて行った。彼らがサマリヤに着くと、エリシャは言った。「主よ。この者たちの目を開いて、見えるようにしてください。」主が彼らの目を開かれたので、彼らが見ると、なんと、彼らはサマリヤの真中に来ていた。イスラエルの王は彼らを見て、エリシャに言った。「私が打ちましょうか。わたしが打ちましょうか。わが父よ。」エリシャは言った。「打ってはなりません。あなたは自分の剣と弓でとりこにした者を打ち殺しますか。彼らにパンと水をあてがい、飲み食いさせて、彼らの主君のもとに行かせなさい。」そこで、王は彼らのために盛大なもてなしをして、彼らに飲み食いをさせて後、彼らを帰した。こうして彼らは自分たちの主君のもとに戻って行った。それからはアラムの略奪隊は、ニ度とイスラエルの地に侵入して来なかった。                                         列王記下 6:8〜23 

   この世の権力、武力で国、人心を支配し、他国を征服しようと願う者にとって、全知全能の神のしもべの存在ほど脅威になるものはありません。己が最高峰に立ちたいという願望は最初に神に反逆した被造物サタンに由来するものでした。反逆の御使い、悪霊と共に天界から投げ出され、地の周りを徘徊しているうちにこの世の反逆の民の王に成りすましたサタンが、人間史において攻撃の的にして来たのは、神に忠実な民でした。アラムの王ベン・ハダデは、かつてエリシャによってらい病から解放された有能な将軍ナアマンが仕えていた王でした。奇蹟的な癒しが起こった後、主君に忠実なナアマンの心にはひとつ気にかかることがありました。イスラエルのヤーウエ神を自らの神と受け入れた後、果たしてベン・ハダデ王に対する自分の忠誠はどうなるのだろうかという疑問でした。ですから、ナアマンは、「私の主君がリモンの神殿にはいって、そこで拝む場合、私の腕に寄りかかります。それで私もリモンの神殿で身をかがめるとき、どうか、主がこのことをしもべにお許しくださいますように。」とエリシャの承認を得ておく必要を感じたのでした。。エリシャの答えは簡潔で、「安心して行きなさい。」の一言でした。ナアマンが信仰によって癒されたことを見て取ったエリシャは、今後どのような環境に置かれようと彼の心がヤーウエ神にしっかり据えられていることを確信し、判断をナアマン自身に任せたのです(列王記下5:18〜19)。
   使徒パウロは、「すべてのことが私には許されたことです。しかしすべてが益になるわけではありません。私にはすべてのことが許されています。しかし私はどんなことにも支配されていません。」(第一コリント6:12)と、主イエス・キリストの御名と神の御霊によって洗われ、聖なる者とされ、義と認められた者の主に在る自由を説きました。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」(6:19〜20)に表現されているように、真の信者は内なる主のご臨在により、異教神リモンの宮に行こうと形式的なお辞儀をしようと、そのような外的要因によって主との個人的関係が揺るがされたり、信仰が問われることはないということなのでした。もし信仰が揺るがされるとしたら、それは内的要因、すなわち自分自身の意図的な主への反逆、たとえば「世の光」「地の塩」として神の栄光を現わすべく主の証人になるどころか、「聖霊の宮」である自分の体への罪を犯すこと、すなわち不品行、貪欲、放縦、憎しみなど邪悪な心的状態に原因があるのです。この悪に染まったり、不信仰に陥ったりする原因が環境、他人にあるのではなく、自分自身の内にあるということはまた、イエスご自身が一貫して語られたことでもありました。「口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るのです。これらは、人を汚すものです。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」(マタイ15:18〜20)と、このイエスの最後のお言葉は『儀式』(ここでは、パリサイ人、律法学者たちが信仰行為として伝統的に遵守していた『聖めの儀式』。しかし、モーセの掟ではなく、バビロン捕囚以降、ユダヤ教の教師ラビたちによって加えられた「先祖たちの言い伝え」に過ぎなかったのでした)を形式的に遂行するか否かによって信仰が問われたり、人の霊的状態が影響を受けたりするものではないことを明らかにされたのでした。
   このベン・ハダデ王の拝んでいたリモンはアラム(シリヤ)の戦闘の神でした。戦闘の神の背後にある霊的存在はサタンですから、王の心は神殿で拝めば拝むほどサタンの心に近しいもの、好戦的、攻撃的になっていたことでしょう。神の民を制覇するにはまず、神の霊に満ち、神の御旨を知ることの出来る神の人エリシャを捕え、殺すことです。敵は神の人の存在そのものがイスラエルの最強のとりでであることをよく知っていたのでした。かくしてエリシャが住んでいた町はアラムの軍勢に包囲され、エリシャの弟子たちは恐れおののきますが、霊の目で状況を見ることの出来たエリシャは、「私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」と、主の守りが完全であること、恐れ動じる必要が全くないこと、したがってただ主に信頼することを教えたのでした。民が恐怖から混乱に陥れられ動揺する時ほど、神の言葉を取り次ぐ人の存在が心強く思える時はないことを、この出来事は語っています。もし私たちが目に見えるこの世の現象、人間、サタンを恐れるとしたら、それは実は神を恐れていないということなのです。「生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。」と神の掟を無視し、背信に陥っているクリスチャンたちにへブル人への手紙の著者は、全人類を公平に裁かれる義なる神を正しく認識するよう警告を発したのでしたが、キリストも、「からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナ(地獄)に投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。」(ルカ12:4〜5)と、弟子たちに、神を裏切る背信の恐ろしさを彼らの心に刻み込むことによって、それより軽度の恐ろしさ―この世での苦難、艱難、迫害、肉体の殺害―を克服することを教えられたのでした。パウロも「私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」と、「聖霊の宮」である肉体を汚さない生き方を、すなわちキリストのために生きることを思い起こさせた後、「こういうわけで、私たちは、主を恐れることを知っているので、人々を説得しようとするのです。」と、語ったのでした(第二コリント5:10〜11)。主を恐れることを知っている者は、父の定めの時までは、神の器、「聖霊の宮」である自らに害を加える者、物が何一つないことを知っているので、世の中で何が起ころうと恐れることは何もないのです。「恐れるな!」という指示は全聖書を通して何と三百六十六回も語られているそうですが、「主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。」(詩篇34:7)、「あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。また、暗やみに歩き回る疫病も恐れず、真昼に荒らす滅びをも。...それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。」(詩篇91:5〜9)と、旧新約両聖書は一貫して、主に在る者の何ものにも揺るがされることのない、恐れ知らずの強さを語っているのです。主に在る平安は主を恐れる者に与えられる最強の武器なのです。
   この出来事の中でもうひとつ見落としてならないのは、主の、敵に対する取り扱い方、神の驚くべき慈愛です。イスラエルの王ヨラムは、エリシャの真摯な祈りが聞かれ、アラムの大軍が盲目状態に陥ったのを喜び、とりこを剣で打ち殺すことを望みますが、エリシャはこの戦いの真の勝利者である主の御旨に耳を傾けます。主が望まれたことは、後世パウロが、平和を保つことの大切さを訴え自分で復讐するのではなく神の怒りに任せることを教えたとき、おそらくこの出来事から神のみ心を学び、要約したように、「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。乾いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ人12:20〜21)ということでした。あくまでも平和裏に物事を処すことを望まれる神は、剣による復讐がただ憎しみを増すばかりで何の解決ももたらさないことをご存じで、むしろ邪悪な者が恥らうほどの善行によって敵を悔い改めへと導く道をエリシャに示されたのでした。邪悪な者に下る裁きの火(「彼の頭に燃える炭火を積む」)が、剣によってではなく、敵をも愛し赦すところから産み出される善行によってもたらされ、彼らが悔い改めへと導かれることを何よりも望まれたのでした。殺害、略奪しようとしたのに反対にとりことなり、虐待どころか盛大なもてなしを受け、釈放されと、邪悪な者たちがおよそ考えもしない敵に対する愛の行為は、間違いなくアラムの者たちの心の琴線に触れたのでした。「アラムの略奪隊は、ニ度とイスラエルの地に侵入して来なかった。」とあるように、人々の心を占めていた攻撃的、壊滅的なサタンの支配に代わって、神の愛が人々の心を支配し、流血惨事を経ないですべてが落着したのでした。

 

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