ULDAH MINISTRY

LETTER TO THE BROTHERS AND SISTERS IN CHRIST

わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。

イザヤ65:1

第75号  2001 年12月28日


  罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行なわない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行ないは悪く、兄弟の行ないは正しかったからです。兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。                                第一ヨハネ3:8〜19下線付加                                             
   地が神の前に堕落し、暴虐で満ちたことを嘆かれた神が洪水によってノアの家族八人を除く全人類を滅ぼされた後、箱舟から出たノアと家族に最初に与えられた契約は、「生めよ。ふえよ。地に満ちよ」と、命に関する祝福、すなわち、人がこの地上に生きることに力点が置かれた祝福、守りの約束でした。言い換えれば、自分、他人の命を問わず、命を侮る者は神によって責任を問われることになる、すなわち、「人の血を流す者は、人によって、血を流される」(創世記9:6)とあるように、下された犯罪に見合う、相応の刑罰が下されることが神の創造の秩序であることが、明らかにされたのでした。箱舟から出たノアがまず主のために祭壇を築き、動物犠牲をささげたことに象徴されているように、血は祭壇の上で人の命を贖うために神に捧げるもの、肉なるものの命が象徴されている、主のために取り置かれるべき神聖なものですから、流血沙汰は神域への侵害という重大犯罪です。この御言葉は、国家、政府の権威の下で下される死刑を認めているもので、聖書の中で殺害を認めているのは、他には、後世モーセに与えられた掟の中に見られる戦場、特殊な状況下での合法的殺人のみです。モーセの掟、「人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない。ただし、彼に殺意がなく、神が御手によって事を起こされた場合、わたしはあなたに彼ののがれる場所を指定しよう。しかし、人が、ほしいままに隣人を襲い、策略をめぐらして殺した場合、この者を、わたしの祭壇のところ(贖いの犠牲が捧げられる場であることから、命乞いの場として用いられる風習が出来上がっていたようです)からでも連れ出して殺さなければならない」(出エジプト21:12〜14)は、過失による殺人と殺意を伴なった殺人とをはっきり区別しており、後者のみが死刑に値するものであることを語っています。
この掟は同時に、人間の目には運悪く、...とか、たまたま...起こったとしか映らない過失致死が、神の視点からは明らかにご計画の中に入れられていることを明記している点で意義深いものがあります。同様に、尊い人の命が神の許可なくして奪い去られるようなことはあり得ないことを、ヨブ記ほか、諸預言書は明らかにしていますが、イエスの教え、「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。...あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です」(マタイ10:29〜31)は、視野をさらに広げ、人間の狭い視点からは洞察することの出来ない、創造者なる神の、人間のみならずすべての被造物に対する全権を明言しているのです。モーセの掟の中に、白昼と夜間とに行なわれた殺害にそれぞれ異なった判決を下している例がありますが、神の御旨は犯罪者に対し死刑宣告を下すことでは決してなく、保護、警告、矯正し、正しく生きる道を示すことが前提であるということです。モーセの十戒の六番目の掟(出エジプト20:13)は、『故殺』(殺意なくして不法に人を殺害)ではなく、『謀殺』(殺意を持って殺害)を禁じるヘブライ語が用いられているそうで、単に「殺すな」ではなく、「殺意を持って殺すな」との意味とのことですから、殺すことを全面的に禁じているのではなく、ノアへの契約ですでに合法化された殺人に対する刑罰の死刑は、その後も神の容認の範疇にあると結論付けることが出来るようです。
   しかし、イエスが山上の垂訓の中で語られた、「『目には目で、歯には歯で。』(『受けたに見合うだけの報復をせよ。しかしそれを越えないように』と、復讐を正当化し、過度な暴力行為を抑制することを意図した教えで、モーセの掟に則ったものでした)と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者(悪を働く者、人の意で、「悪、サタンには立ち向かえ。」というのが聖書の教えです)に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」(マタイ5:38〜39)から、クリスチャンは絶対的平和主義者であるべきという信念が広まったのでした。しかしながら、このイエスの教えは個人的な対人関係という状況設定の中で語られたものであり、戦争のような政治的、社会的範疇の出来事に応用できるものか否かは学者間でまだ議論の域を出ない課題なのです。聖書注釈書サクラ・パジナはアラム語の『背』が『他方』と間違えられて翻訳された可能性を指摘し、頬を平手で打たれるというこの文脈は暴力行為というより無礼、侮辱行為によって辱められたという設定であり、そのような辱めを受けたとき、むしろくるりと背を向けて報復行為に出るなという教えであると解説しています。実際、預言者エレミヤやイエスも同じような状況下で仕返しをしなかったという例、特にエレミヤの場合はその場を「立ち去った」と、神の御旨を実践したことが記されていることから、サクラ・パジナの注釈を受け入れることは妥当です。したがって、この箇所はなるほど報復しないこと、個々の人間関係においてあくまでも平和を保つ努力をすることを教えてはいますが、戦争のような国家の権威の下で召集、行使される、合法的暴力行為に応用することは出来ないようです。では、イエスが同じく山上の垂訓の中で語られた「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのをあなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。...」(マタイ5:21〜22)という教えは、一切の戦闘行為を否定する絶対平和主義を説いているのでしょうか。デイヴィット・ビビンはイエスの教えが絶対平和主義ではないことを、翻訳途上で生じた不正確さに起因するものとして解説しています。イエスが引用されたのはモーセの十戒の第六の掟で、明らかに謀殺を禁じたものでした。しかし、戦場などで自己防衛のために敵の命を奪うことは合法だったのでした。また詩篇37篇で繰り返され、箴言でも語られている「悪を行なう者に対して腹を立てるな」というメッセージも言い換えれば、悪を行なう者と競うな!立てつくな!ということで、イエスの教えの背景にあったようです。したがってデイヴィットの解釈が正しければ、イエスは、個人レベルの人間関係にあって悪を行なう者に対しては旧約の著者たちが一貫して解いて来たように、背を向け、その場を去り、報復するなと教えられたのでしたが、悪、サタンに対しては決して服従せよ、抵抗するなとは語られなかったのでした。すなわち、イエスが山上で語られたのは、殺人者、強姦、強盗などに襲われたとき、戦場で敵と交戦するとき、自衛の必要があるときに取るべき態度についてではなく、イエスに従う者たちの、隣人への接し方が兄弟愛を実践するものであるようにという教えであり、すなわち、仕返しをするのが当たり前のこの世にあって、復讐は主に任せ、努めて平和を保つ人間関係を築いていくようにという勧めでした。「もしあなたを憎む者が飢えているなら、パンを食べさせ、乾いているなら、水を飲ませよ。...主があなたに報いてくださる」(箴言25:21〜22)。そのような生き方を実践するようにと諭されたのです。
   さて冒頭に取り上げたくだりは神の子どもの本質を語っています。神の子どもと悪魔の子どもとの見分け方は、兄弟(肉親をも含めた隣人)を心から愛するか憎むかにあること、前者が神の目に真に生きている者であり、後者は霊的に死んでいる者であることを教えています。自分の命を守るためにやむを得ない情況に置かれた非常に特殊な場合を除いて殺人は、たとい自分の信仰を守るという一見高尚な理由を掲げても、命を与える真の神から来るものでないことは明らかです。自らの信仰を擁護するため殺人を正当化する宗教は悪魔がその神であるということです。イエスはある時、心の中でイエスを殺そうと機会を狙っていたユダヤ人たちに、「あなたがたは、...父である悪魔から出た者で...あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っている」と鋭いお言葉をかけられましたが、数ある宗教、そのどれもが自己を正当化している今日、彼らの信じている神を見分ける良い基準と言えるでしょう。

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  This month a money gift has been sent to Scripture Gift Mission(SGM) to support their outreach with the Word of God. They have produced over 21 million Bible resources for people all over the world in over 180 countries and in 300 different languages. In this time of poverty, political instability and religious conflict in Central Asia, our concern and indeed that of others, is about people in Afghanistan and Arab countries. SGM has just printed some new Bible resource booklets in Arabic and also in the languages of Kazakhstan, Azerbaijan and Kyrgyzastan which are ready to be distributed. Pray for all those tracts to be distributed safely and effectively in the Muslim countries. How exciting it is to know that the Word of God has steadily been sown to the end of the world through each Christian's cooperation -prayer, time and money!
If you want some tracts for your friends or relatives contact the following SGM offices and you can get free copies in different languages: International Centre & Britain 020 7730 2155, Kenya 254 2 445609, Malaysia 07 2242188, Philippines 632 650 4692, Singapore 475 1865, Spain 91 442 5898, Europe(in Poland) 56 655 6030, Sri Lanka 941 564 684, and USA 877 873 2746. Evangelism can start at home with the people around you!


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