ULDAH MINISTRY

LETTER TO THE BROTHERS AND SISTERS IN CHRIST

わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。

イザヤ65:1

第76号  2002 年1月25日


  そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。だから、この子どものように、自分を低くする者が天の御国で一番偉い人です。また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。つまずきを与えるこの世は忌わしいものです。つまずきが起こることは避けられないが、つまずきをもたらす者は忌わしいものです。...あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつもみているからです。                      マタイ18:1〜7...:10
   さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをしかった。イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。」                              マルコ10:13〜14


   イエスは多くの大切な教えをたとえを通して語られましたが、そのほとんどすべてが神の国に関する教えです。神の国がどのように実現するのかは、多くの者たちの関心の的ですがその解釈はさまざまです。もしイエスの語られた「神の国」が、今の私たちの生活には縁がなく、未来に実現する理想的な世のことでしかないとしたら、イエスは地上での貴重な短い宣教期間のほとんどを、もっぱら来るべき世のあるべき姿を知らせるために費やされたことになり、この世の終わりを強調し、来たるべき世のみを望み見て厭世的に生きることを奨励する終末カルト、セクトの指導者たちと何ら変わらないことになります。反面、もし「神の国」が神の時が満ちたとき、この世に具象的に実現するものではなく、イエスを主と受け入れた者たちの心の中に心象的に実現するものに過ぎないとしたら、なぜイエスは対人関係から、祝宴の設け方、接待の仕方、祭儀の守り方に至るまで事細かに、神の国があたかも物理的世界であるかのように描く必要があったのかという疑問が生じてくるでしょう。たとえに浮き彫りにされた神の国をイエスが意図された通り解釈することは思いの他、難解なようです。教えの中でも「神の国と幼子との関係」はイエスが好んで用いられた重要なテーマでしたが、その意味は案外明確には解き明かされていないのが実状です。イエスの御許に近づこうとする子どもたちを追い払った弟子たちに対するイエスの憤り、子どもたちは入ることが出来るが大人は決して入れない、しかし、このような子どもを受け入れる者は入れる神の国、神が守護天使を通して常に見守っておられる子どもを見下げるような者に対する警告、抱き、御手を置き、祝福しと、子どもを愛情を持って扱われるイエスの姿、等々に象徴されていることを正しく理解するにはまず、当時の社会の子どもに対する概念、処遇を正しく知る必要があるようです。
   イエスが宣教活動をされた西暦一世紀初頭のイスラエルを含めた地中海沿岸諸国では、幼児に対する父権は絶対的で、生まれてくる子どもを生かすも殺すも父親の裁決次第でした。父親が「否」と言えば、ごみ同然に捨てられ、あるいは奴隷に売られ、里子に出されるかの存在でしかなかった幼児は、父親の認可の下ではじめて家族の一員として迎え入れられた、言わば、それ自体は無価値、全く無に等しいものだったのです。そのような無価値な幼児をイエスが、その存在を認められただけでなく、「天の御国で一番偉い人」と、教えられたことは当時の社会理念からすれば、革命的なことでした。福音書著者マタイは、そのような自力で
は何もすることの出来ない無に等しい幼児の身分を、「自分を低くする者」と表現したのです。ですから、子どもたちのようになるということは、自分が天の父、神の前に無に等しい者であったのに、子として認可してもらいはじめて生きる者となったことを知るということであり、全信頼を父に委ねて生きざるを得ない者であるということを知るということなのです。また、逆説的に、人間社会ではそのように無価値な者を、全宇宙、全被造物の創造者であられる天の父が受け入れられ、神の家族の一員として認可されたとしたら、父親の認可によって価値ある存在と認められ、「生きる者」となった幼児を、人は全面的、無条件に受け入れなければならないということになるのです。しかし、自分が何か特別な存在であるかのように思い、幼児に象徴される、この世の基準で無価値とみなされる者をさげすむとしたら、それは神の認可を拒絶するということであり、イエスが厳しく戒められたのは、そのような姿勢でした。神が生命を与えられた一人一人はこの世の尺度とは全く無縁にすべて価値ある存在であり、神の御許に常時はべっている御使いによって見守られているのです。もし、神にとって貴重なそのような者の一人にでもつまずきを与え、中傷し、ないがしろにし、拒絶し、抑圧し...というようなことが行なわれるとしたら、そのような無慈悲な扱いに対して、神ご自身が報復されることになるでしょう。神の御使いによって見守られているそのような小さき者たちになされたことはすべて、神にお見通しであり、弁解の余地はないのです。神の御手に陥ることの怖さを思い知ることになるのです。
   このように、神が子として認可された者への処遇の是非は、権力が誤用、乱用された階級社会にあっては特に、幼ない者、弱い者、貧しい者、賤民への扱いに如実に現れたので、イエスの教えはそのような者たち、いわゆる社会から疎外された「罪人(つみびと)」への救いに向けられたのでした。イエスの教えを受け入れないこの世に属する者たちならともかく、イエスの弟子たちですら、幼な子を拒絶し、無慈悲な扱いをしたとき、イエスが憤りで応えられたのは至極当然でした。イエスの教えを聞いていながら、この世の歪められた理念に則ってしか行動しなかった弟子たちに対する憤りだったのです。このような無に等しい幼な子を受け入れることの出来る者は、自分自身が神の前に無価値であることを受け入れる者ですから、同時に天の父によって神の家族の一員として受け入れられる、すなわち、神の国に入ることの出来る者なのです。イエスが幼な子に行動で示された親愛感は、その存在を認可したという、まさに父親が自分の子に示す情愛の現れでした。
   神の国とは、このように、神に受け入れられてはじめて価値が認められるような無に等しい者たち、すなわち、自らの救いようもない無力さに気づいて、神に頼らざるを得ない者たちが神の支配下で生かされる御国なのです。その神の国は、イエスを主と仰ぎ、イエスの教えを受け入れたとき、始まります。もっとも、御国が物理的に地上に実現する時は、天の神が定められた未来の一点、完成の時ですが、今、厭世的にではなくこの地上での生活を忠実に生きることによって、すなわち、この世のシステムの中で忠実に、なおかつ忍耐を持って主を仰いで行く生活の中で、未来の神の国に入れられる備えが着々となされて行くのです。言い換えれば、この世に不忠実な者は神の国でも不忠実であるとみなされますから、今をどのように生きるかが大きく問われることになります。厭世的な生活態度は言うまでもなく、ただ未来を夢見て、定職にもつかず、締まりのない浮き足立った生活が主のみ心でないことは、主のたとえの中でも、また使徒パウロの教えの中でも厳しく警告されているのです。
   パリサイ派のユダヤ人指導者ニコデモが人目を忍んでイエスの許に来たとき、イエスは、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)。と教えられ、意を図りかねたニコデモに、水と御霊によって生まれる必要、すなわち、霊肉ともに新生しなければ御国に入れないと説明されたのでしたが、一言で言えば、『赤子からやり直しなさい!』ということでした。無価値な者が天の父によって認められ、生きることが許されたという認識からスタートし、この世の理念ではなく、神の国の価値観で物事、人を受け入れて行く道―イエス・キリストを通して神に至る道―を選ぶとき、新生の人生がこの世で始まるということでした。生まれ変わるとは、イエスを受け入れ、神の国の価値観でこの世、今を生きて行く、実践の信仰生活のことです。しかし、神の国の価値観、掟はこの世のものとは革命的に違っていますから、主を第一優先に生きていこうとするとき、この世との摩擦、対人関係のあつれきは避けられないことになります。サタンの攻撃、誘惑は個々人の弱い部分に向けられ、信仰生活が揺るがされるような試みに陥れられることも起こり得ます。この世での肉体の死の後、未来、地上に成る神の国を経て、新しい天と地、新しい天のエルサレムに住むことの出来る「永遠のいのち」の約束は、信じる者すべてへの確約、信じる者にとって人生の紛うことのない指針となりますが、無価値な者への一方的な父の愛、十字架上での主イエスの救いの業から目をそらして、限られた富、満足、喜びを与えるに過ぎないこの世の価値観、理念に目を奪われるとき、人生の目標に向かって主の道を歩むことが大変な苦痛になってくる信仰生活の危機に遭遇することもあり得るのです。このような意味で、イエスは信仰生活には忍耐が要求されることを、繰り返し警告されたのでした。主の道は、決して安易な道ではなく、自分を捨て、自分の十字架を負い、主に従う厳しい、患難なくして歩むことの出来ない「狭い門」から入る道です。しかし、神の家族の一員として受け入れられ、神の国に入れられるという最高の名誉、祝福に与かる唯一の道でもあるのです。御霊によって歩む道に伴う困難が、主を仰ぎ見、約束の成就を確信することによって克服できることをパウロも、「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」と、教え、励ましたのでした。

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  This month a money gift has been sent to Mary Jane in the Philippines. Having graduated from the YWAM course in 12th Dec. last year, as a qualified child carer, she has resumed her children ministry for the poverished children in Powerline, in Rbvabiches and in Junji with a new spirit. Pray for her pioneering work for those disadvantaged children- in the setting up of a mini-public library, and for all the needs to be met by the Lord. Also pray that the other helpers - Her mother and Pep - and new helpers, will be blessed through their involvement in her ministry.

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