ULDAH MINISTRY

LETTER TO THE BROTHERS AND SISTERS IN CHRIST

わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。

イザヤ65:1

第77号  2002 年2月22日


  次のような主のことばが私にあった。「人の子よ。預言をしているイスラエルの預言者どもに対して預言せよ。自分の心のままに預言する者どもに向かって、主のことばを聞けと言え。神である主はこう仰せられる。自分で何も見ないのに、自分の霊に従う愚かな預言者どもにわざわいが来る。イスラエルよ。あなたの預言者どもは、廃墟にいる狐のようだ。あなたがたは、主の日に戦いに耐えるために、破れ口を修理もせず、イスラエルの家の石垣も築かなかった。彼らはむなしい幻を見、まやかしの占いをして、『主の御告げ』と言っている。主が彼らを遣わされないのに。...実に、彼らは、平安がないのに、『平安。』 と言って、わたしの民を惑わし、壁を建てると、すぐ、それをしっくいで上塗りしてしまう。しっくいで上塗りする者どもに言え。『それは、すぐはげ落ちる。』 大雨が降り注ぎ、わたしが雹を降らせ、激しい風を吹きつける。すると、壁が倒れ落ちる。...わたしは、憤って激しい風を吹きつけ、怒って大雨を降り注がせ、憤って雹を降らせて、こわしてしまう。...その土台までもあばかれてしまう。それが倒れ落ちて、あなたがたがその中で滅びるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。...                        
   イスラエルの長老たちの幾人かが来て、わたしの前にすわった。そのとき、私に次のような主のことばがあった。『人の子よ。これらの者たちは、自分たちの偶像を心の中に秘め、自分たちを不義に引き込むものを、顔の前に置いている。わたしは、どうして彼らの願いを聞いてやれようか。...心の中に偶像を秘め、不義に引き込むものを自分の顔の前に置きながら、預言者のところに来るすべてのイスラエルの家の者には主であるわたしが、その多くの偶像に応じて答えよう。偶像のために、わたしから離されてしまったイスラエルの家の心をわたしがとらえるためである。...悔い改めよ。偶像を捨て去り、すべての忌みきらうべきものをあなたがたの前から遠ざけよ。...わたしがそのような者から顔をそむけ、彼をしるしとし、語りぐさとして、わたしの民のうちから彼を断ち滅ぼすとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。  
     エゼキエル13:1〜14、14:1〜8


   今日の世界情勢には相反した二つの動きが見られます。民族は民族に、国は国に敵対し、憎しみ、いがみ合い、戦争、紛争、大量殺人を伴う流血惨事が激化し、テロリズムの脅威、環境汚染、公害問題、麻薬はじめ有害薬物中毒の大衆化、犯罪の増加、狂暴化、低年齢化、疫病の蔓延、社会倫理、モラルの低下、深刻化する不況に伴う世情不安、社会治安の悪化、貧富の差の拡大、無法化から暴動の兆し、等々、まず否定的な現象が圧倒的に全世界を支配して来ています。世の終わりの「産みの苦しみの初め」の兆候としてイエスが語られた自己中心、分裂に代表される現象です。他方で、欧州連合、ヨーロッパ統一貨幣ユーローに反映されているような、国家間、民族間の経済、金融、政治、宗教的歩み寄り、すなわち、世界的規模の超国家構想への動きが、昨年九月十一日のニューヨークの世界貿易センター双子ビル崩壊惨事以来、とみに顕著になって来ています。
   イスラム教テロリストによるあのような悲惨な事故が起こったのは、過激派の独善的な狂信のせいであるという世論が、各界の指導者たちの間で取り上げられ、世界平和を求める動きの矛先が、政治、経済、宗教、社会、文化を問わず、何でも過激、排他的なものは危険、除外しようとする動きに向けられてきています。以前から取り沙汰されていた世界的規模の統一化への傾向です。宗教界ではこの動きは、世界統一宗教への具体的なステップと言えるかもしれません。しかし、分裂した政府、国家、民族の友好関係を取り戻すため、統一、和合を追及しているかのように見えるこの一連の動きは果たして手放しで喜ぶべき最善策なのでしょうか。かつては同一宗教内の宗派、教派間の歩み寄り、一致に眼点が置かれていたキリスト教会のエキュメニカル運動も今回の惨事に触発されて、他宗教との妥協への動きにさらに大きなステップを踏み出したようです。今年初頭にイタリアのアッシシで、世界諸宗教の今後の動向を暗示するかのように、世界各国から十の宗教の指導者たちが集まって、共に、それぞれの神、神々を崇拝し、祈りを捧げるという、平和を象徴するかのような集い、宗教学会がもたれましたが、今日のキリスト教会の動き、指針が反映されていると言えるようです。辿る道は違っても拝んでいる神は同じ、互いに手を取り合って各宗教が世界平和のため貢献して行こうという世界統一宗教への歩みに加わったということなのです。すなわち、キリスト教内の排他的とみなされる教えは取り除いて、他宗教を刺激することなく、歩調を共にして行くことが全人類の平和につながるとする立場を今日の大方のキリスト教会は取り始めたのです。しかし、この立場には、礼拝している神が果たして同じかどうかという問題に加えて、キリスト教を特徴付けるイエスの教えを信奉してなおかつ、他の宗教信者と共に心を一つにして祈ることが出来るものかどうかという問題が持ち上がって来ます。
   「神を信じ、またわたしを信じなさい。...わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:1〜6、下線付加)、「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。...だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。」(ヨハネ15:4...:6...:20、下線付加)と教えられたイエスに忠実であろうとするなら、他の宗教を信じる者たちの目には、クリスチャンは排他的、過激論者と見られるということですから、真のクリスチャンは、今日主流になって来ているエキュメニカル運動に反する立場に立つということになるのです。このことはすでに、インドネシア、フィリピン、中国、アフリカ、イスラム教国などで現実に起こっているクリスチャン迫害に見られます。しかし、深刻な迫害に曝され、殉教死して行くクリスチャンが増えている一方で、多くの神学者、指導者、教会、信者たちが、サタンの巧みな罠―和平へのスローガンの下で、偽りの信者は妥協案を取り、その行為を選択することによって唯一の道である主を否定しているのに、この世の平和に貢献する者とみなされ、他方、真の信者は迫害、死刑に処せられ、過激論者、和平に反対する者とみなされる―に陥って、主が約束された上からの平安ではなく、この世の和平を追求する道をすでに選んでいるのです。不変の神の絶対基準は律法的として否定、退けられ、この世に迎合した人間の道徳基準、思考、傾向がのキリスト教会の信仰基準にすげ替えられて来た結果の刈り取りを今日しているのです。教会が社会に神の掟を提示して世を目覚めさせるのではなく、人間中心のこの世の掟が教会の中に浸透し、教会に影響を及ぼし、もはや神の掟は時代遅れと、神の言葉が正確に語られなくなった恐ろしい欺瞞、不信仰の時代に私たちは生きているのです。とりわけ憂うべきことは、エゼキエルの時代、民の霊的指導者となるべく神から召名を受けた祭司が、「聖なるものと俗なるものとを区別せず、汚れたものときよいものとの違いを教えなかった」ため民が、善悪の判断が出来ずこの世の罪悪に引き込まれ堕落したように、今日、あまりにも聖書の教え、神の言葉を知らない未成熟のクリスチャンが多いということです。教会はイエスの言葉から発展させた道徳訓、教訓、対人関係は好んで語るのですが、神と自分との関係を知る上で欠かせない旧、新約両聖書の教え、神が私に何を語っておられるかを教えていないということは致命的です。エゼキエルに神が警告された時代のイスラエル人と同じ霊的退廃状態に、今日のクリスチャン指導者、会衆は置かれているのです。
   冒頭に引用したエゼキエル13章では、神の霊ではなく自分の霊、欲望のままに歩んでいる愚かな霊的指導者に対する警告が語られています。まず、「主のことばを聞け」と忠告された主は、迫り来る主の日、裁きの日に備えて、民を誘惑に負けずどのような困難に会っても堅く立つことが出来るよう指導しなかった指導者たちへの裁きを告げられます。神の言葉を託された預言者、見張人の役割は民を危険から守るべく、事前に警鐘を鳴らし、備えさせることなのに、「平安、平安」と、その場しのぎの慰めの言葉でごまかしていたこれら指導者たちは、自らの時間と労を割いて民を使徒訓練するどころか、自らこの世の享楽に溺れ、根無し草、土台の無い建物のようにしか民を育てていなかったのでした。大雨、雹、強風を伴った攻撃の嵐が襲って来たら、神の御言葉の土台を築かないで、簡易しっくいの上塗りで当座しのぎの信仰生活を送って来た者たちはひとたまりもありません。押し流され、打たれ、吹き飛ばされ滅びに至るのです。父が愛をもって子を訓練し一人立ちさせるということが、子どもが喜ぶことだけをさせるというのでは決してなく、むしろ反対に、安逸を好む子どもに聞きたくない神の厳しい掟を教え、実践するよう励まし導いて行く忍耐の道であるように、指導者たちはまず自らが神の掟を実践することによって手本を示し、厳しいが真の救いに導く神の掟を民に取り次いで行かなければならなかったのでした。聖書は、民の堕落を一貫して指導者の霊的堕落の結果として、上に立つ者に責任を課していますが、かと言って、盲目的に従った民が無実であるというのではなく、「預言者は偽りの預言をし、祭司は自分かってに治め、わたしの民はそれを愛している」というエレミヤの言葉にも反映されているように、共犯であることに違いはないのです。
   続く14章でエゼキエルは、指導者はじめイスラエルの民の、二心を抱いて、しかし表面的には真摯に神を礼拝し、御言葉を求め、祈っている姿を暴き、彼らが、「心の中に偶像を秘め、不義に引き込むもの」、信仰生活の障害になるものを常に眼前にぶら下げている、すなわちそれらと縁の切れない、肉の思いが優先した状態にあることを指摘しています。そのような神とこの世の両方に二股をかけている生半可な信仰状態では、主に献身することはおろか、主を心から賛美、崇拝することなど到底出来ず、地に剣が送られ、悪い獣が横行することになる恐ろしい主の日、患難の時、試練に耐え、勝利者となる備えが出来ているとはとても言えないのです。心底から主を求め、御旨を知り、願いがかなえられたいと思うなら、「悔い改めよ。偶像を捨て去り、すべての忌みきらうべきものをあなたがたの前から遠ざけよ」と、主は命ぜられたのでした。今日、私たちの前には、分裂、紛争か、あるいは、和平かの二つの分かれ道があり、和平の道はさらに妥協、統一か、あるいは、イエス・キリストへの忠誠、唯一の道かに分かれ、私たちはその岐路に立たされ、二者択一を迫られています。エレミヤの時代、主は、「四つ辻に立って見渡し、昔からの通り道、幸いの道はどこにあるかを尋ね、それを歩んで、あなたがたのいこいを見いだせ。」と岐路に立ったときの道の選び方を明示されました。勝利の栄冠を最終的に得ることが出来るのは、昔からの不変の道、信仰の先達が命をかけて守り通してきた道以外にありません。昨今のイスラエルはじめ世界情勢―流血惨事の激化と平行して大規模な統一、世界統一政府、宗教統一、経済統一、金融統一、世界法への動き―を見ますと、個々のクリスチャンが否応無しにこの選択をしなければならない時が、思いの他、迫っていると言えるかもしれません。

 

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