ULDAH MINISTRY

LETTER TO THE BROTHERS AND SISTERS IN CHRIST

わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。

第78号  2002 年3月29日


  患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、悪を行なうすべての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。神にはえこひいきなどはないからです。律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。...では、いったいどうなのですか。彼ら(ユダヤ人)のうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。絶対そんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。...では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシャ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。...「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また彼らは平和の道を知らない。」「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」...律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、値なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。 
             ローマ人への手紙 2:9〜12...3:3〜4...:9〜18...:20〜26


   ユダヤ人は、神との永遠の契約のしるしである割礼を身に帯びた民であり、へブル語聖書(神の言葉、律法)が授けられた民という点ですべての異邦人に勝った特権が与えられていました。しかし、もし彼らが神に対して不真実であったら、神はもはや交わした契約に忠実ではなく彼らを見捨てるだろうかという問いにパウロは、「絶対そんなことはありません」と答え、たとい、全イスラエルが神に不真実であっても神の真実、一旦発されたご自分の御言葉への忠誠は不変であると、驚くべき宣言を展開します。それではユダヤ人は他の民より勝っているのだろうかという疑問には、やはりパウロは否ときっぱり答え、人間の罪の本質に言及します。人間の罪は人種を問わず普遍的で、たといどんなに努力して善を行なっているつもりであっても、創造者なる神の前に義と認められる者は一人としていないことを、へブル語聖書からの引用で示したのでした。神に対する恐れのない、すなわち、神の存在を認め、信じない者の姿は、神の目には、悟りがなく、迷い出た無益で貪欲、二枚舌で毒舌、欺きを語り、流血を好み、平和は愚か、破壊と悲惨への道を歩んでいる、哀れな滅びる者の姿でしかないのです。
   ユダヤ人は律法を守り切れない自らの弱さ、罪深さに気づくことなく、むしろ律法を持つことに安んじ、特権を過信し、神を誇ったために、律法によって裁かれることになります。もともと律法は偽善を助長
するために与えられたのではなく、義を認識し、罪の意識を生じさせるためのものでした。したがって律法が与えられたユダヤ人は他のどの民よりも神の御心を知り、成すべきことをわきまえているはずでした。逆説的に、そのような律法下での生活から生み出されるのは、人間にとって律法を守ることが到底不可能であるという認識、言い換えれば、律法を全うすることによって、また、人間の業によって神を喜ばせることは出来ないという認識のはずで、むしろユダヤ人は、神の前に至らない自らを悔い改める生活の先例を、他の民に率先して示して行くことが出来たはずでした。このようにして神に頼らざるを得ない人間の真の姿、しかし頼りすがる者に有り余る祝福でもって答えて下さる神の愛、満たし、守りを人類に証しして行くこと、神の『証人』となることが選びの民ユダヤ人に託された神の御旨だったのです。しかし、神から与えられた割礼、律法という賜物を神の御旨に従って生かすことの出来なかった、すなわち、神への忠誠を外面的な儀礼、宗教的形式主義、律法主義にすげ替えてしまったユダヤ人は、与えられた律法に照らして裁かれることになるのです。他方、律法を持たない異邦人も、律法がないことを良いことに罪を犯して来たのであれば律法なしに滅びることになるのです。つまり、ユダヤ人も異邦人もともに裁きに服することになるのです。
   しかし、そのような絶望的な状態にある罪深い人間に、へブル語聖書(「律法と預言書」)が古来証しして来た「神の義」が、罪に死すべき全人類の救済のためもたらされたのでした。この「神の義」は、律法を全うすることによって達成できる義、すなわち人間の行ないに見合った、『獲得される義』ではなく、イエス・キリストの贖いによって達成された、神から与えられた『神ご自身の義』なのです。イエス・キリストを信じる者にはこの上からの義が代価無しに与えられるのです。十字架上で流されたイエスの血が全人類を救うための尊い代価としてすでに払われたので、イエスを信じる者は文字通り、この義が値無しに与えられ、すなわち、罪ある者が神の目に値無しに義と認められることになったのです。イエスの血潮による代価は、人類の最初の堕落以来、罪と死との奴隷になっていた人類を神の最初のご計画の状態に戻すこと、すなわち、買い戻すことになりますから、パウロはイエスの十字架上での死を、「イエス・キリストによる贖い」、神の怒りを静める「なだめの供え物」と表現したのでした。律法を全うすることの出来ないユダヤ人が、また、一日として罪と無縁に過ごすことの出来ない異邦人が共に救われる『唯一の道』は、ご自分から進んで「なだめの供え物」となって下さったイエス・キリストを救い主として受け入れる道以外にないのです。この救いの道は、神がイエス・キリストを通して罪あるままの不相応な人間をあたかも罪がないかのように義として下さった、神の一方的な恵みなのです。人間の側の働きによって救われるのではありませんから、罪過と罪との中に死んでいたのに永遠に生きる者とされたと言って誰も自分を誇ることは出来ないのです。私たちが救われたとしたら、栄光を受けるのは神ご自身なのです。
   「なだめの供え物」は、イスラエルの七大祭りの一つ、第七月の十日の「贖罪の日(ヨム・キプール)」に罪の贖いのために捧げられるいけにえのことでした。旧約時代、この日には、山羊が殺され、その血が至聖所に置かれた、金をかぶせたアカシヤ材の契約の箱の上の「贖いのふた」の上に振り注がれたのでした。契約の箱の中には、律法の記された二枚の石の板他、荒野での神の驚くべき業を思い起こさせる品々が置かれていました。大祭司が年一回、贖いのふたの上に血を振りかけるという行為は、律法が犠牲の山羊の血によって覆われ、イスラエルの罪、すなわち、神の掟への違反が除かれることを象徴するものでした。贖罪の日にはその後、もう一頭の別の山羊が、「贖罪の山羊」として生きたまま荒野に放たれたのでした。大祭司はこの山羊の頭の上に両手を置き、イスラエルの罪と自らの罪を告白して山羊に課せ、罪もろとも滅びるために荒野に放ったのでした。罪のない動物犠牲に人間の罪を負わせ、取り除くという、この象徴的行為と、最初の山羊が担った、血による贖いで人間を律法の下での罪から解放するという象徴的行為は、義なる神の罪に対する怒りを静める、すなわち、なだめるためのものでしたが、しかしあくまでも一時しのぎという対症療法でしかありませんでした。動物犠牲では故意に犯した人間の罪は贖えないという限界があり、イスラエルの民はいつの日か神が完全な供え物を与えて下さることを待ち望みつつ、毎年一回、「贖罪の日」を守っていたのです。果たして二千年前、神は、ユダヤ人の待ちに待った最後にして一回きりの完全な、「なだめの供え物」として、イエス・キリストをこの世に送って下さいました。父なる神の御旨に従って、イエスが十字架上で死んで下さったことにより、その流された血潮によりユダヤ人も異邦人も共に、イエスを救い主、メシヤ、キリストとして受け入れることにより、罪、死から解放され、永遠に生きる道が開かれることになったのです。イエスが十字架上で、「完了した」と言われ、息を引き取られた時起こった、エルサレム神殿の聖所と至聖所とを仕切っていた垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けるという出来事は、信じる者が直接神の御前に出ることの許される新約の時代の訪れを象徴的に告げたものでしたが、同時に、ユダヤ人と異邦人とを隔てるため、神殿の外庭と内庭との間に設けられていた「隔ての壁」と、内庭を「イスラエルの庭」と「女性の庭」とに仕切っていた壁とを取り除くことを予兆したものでもありました。「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。」「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。...ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」とパウロが説いたのは、まさにイエスの死において初めて、真の平和実現への道が開かれたことを告げ知らせるものだったのです。

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  This month a money gift has been sent to MISSION WITHOUT BORDERS to support their project "The bible School in a Box" for the people of southwest China. They are providing the young Chinese church, church leaders and members even in some of China's most remote villages with teaching, training and guiding equipment of Video Compact Disc through which thousands of Chinese Christians are learning skills in handling the Bible. Considering the situation in the mainland China where false teachings are on the increase and Bible schools and theological training are banned apart from activities by officially registered churches, i.e., the state-endorsed Three Self Church, the out-reach by sound biblical teachings through Video CD technology is very appropriate to respond to desperate needs.
Pray that the true Word of God will effectively advance against the growing false teachings of cults, by any appropriate means, especially in some parts of China placed under severe attack.

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