ULDAH MINISTRY

LETTER TO THE BROTHERS AND SISTERS IN CHRIST

わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。

イザヤ65:1

第79号  2002 年4月26日


  イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその星を見たので、拝みにまいりました。」それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。...王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。...そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。そして、こういって彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく、喜んだ。...夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。...主の使いが夢でヨセフに現れて言った。「立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。...」...その後、ヘロデは、博士たちにだまされたことがわかると、非常におこって、人をやって、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させた。その年齢は博士たちから突き止めておいた時間から割り出したのである。...へロデが死ぬと、見よ、主の使いが、夢でエジプトにいるヨセフに現われて、言った。...そこで、彼は立って、幼子とその母を連れて、...ガリラヤの地に立ちのいた。そして、ナザレという町に行って住んだ[マタイ2章]。(ザカリヤの)妻エリサベツはみごもり、...その六ヶ月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。...「...あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。...」[ルカ1:24〜38]。そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。それで人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。ヨセフもガリラヤの町ナザレからユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。...身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。...彼らがそこにいる間に、マリヤは日が満ちて、男子の初子を産んだ。...八日が満ちて幼子に割礼を施す日となり、幼子はイエスという名で呼ばれることになった[2:1〜21]。教えを始められたとき、イエスはおよそ三十歳で、人々からヨセフの子と思われていた[3:23]。皇帝テベリオの治世の第十五年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの国主、その兄弟ピリポがイツリヤとテラコニテ地方の国主、ルサニヤがアビレネの国主であり、アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った[3:1〜2 下線付加]。

   今日、科学、考古学、コンピュータ工学の驚くべき発達により人間史がかなり正確に再現出来るようになり、聖徳太子が日本史から消える!に象徴されるように、立証できないもの、人物は容赦なく取り除かれるご時世にあって、しかしニ千年前パレスチナに生きたナザレ人イエスの歴史的考証は、実在のイエス、聖書に描かれたイエス像をますます揺るぎないものにしています。現代科学は聖書に記されているイエスの降誕、伝道、受難の出来事、当時の天体現象、惑星、星座の位置からイエスの生年月日、死亡日をかなり正確に告げることが出来るのです。四福音書、使徒行伝、ユダヤ人ヨセファスとローマ人タキトスの両史記はすべて一致して、イエスの死がポンテオ・ピラトがユダヤの総督であったとき、西暦26〜36年(CE)としています。
   上記のルカの福音書3章冒頭の対照人物年表はイエスより半年早く生まれたイエスのいとこ洗礼者ヨハネが、救い主の到来を告げ、悔い改めのバプテスマを説くミニストリーを始めた時期を詳細に伝えています.皇帝テベリオの治世は14〜37CE、ヘロデ大王の息子ヘロデ・アンティパスがガリラヤの国主であったのは、紀元前4年(BCE)〜西暦39年(CE)、弟ピリポがイツリヤとテラコニテ地方の国主であったのは、4BCE〜33/34CE、カヤパが大祭司であったのは、18〜36CEであることからヨハネがミニストリーを始めたのは、26〜36CEの間となり、したがってイエスがミニストリーを始められたときには、ピラトはすでにユダヤの総督であったということになります。また、皇帝テベリオの第十五年とはおそらく26〜29CEの間であったと考えられることから、イエスはヨハネのミニストリー開始とあまり違わず、26、あるいは、27から29CEの間に福音伝道を始められたとみなすことが出来るのです。
   さて、イエスの御降誕は、マタイ、ルカ両福音書が一致してヘロデ大王の治世(37〜4BCE)と明記していることから、イエスが紀元前4年以降にお生まれになったことはあり得ないことになります。上記のマタイ2章の東方の博士たちの物語は、聖書を必ずしもすべて実話と認めていない神学者たちの間でも基本的には史実とみなされているくだりですが、イエスがヘロデの死の一、ニ年前にはすでに降誕されていたことを示唆しています。皮肉にも、当のヘロデ自身ではない、数世紀以上も前から誕生が預言されていた「ユダヤ人の王」の生誕を拝むため星に導かれて東方からエルサレムまでやって来た博士たちが、ベツレヘムでイエスにまみえ、そのままヘロデに何も報告せず自国に帰ってしまったことを知ったヘロデが、星の出現の時間から幼子の誕生の時期を逆算し、ベツレヘム界隈の男児虐殺の命令を下しますが、王として生まれた男児を殺し損じることのないように最大限に見積もった年齢が二歳でした。これは当時エジプトに落ち延びていたイエスがすでに一歳から二歳の幼児であったことを意味し、福音記者マタイはなるほど、博士たちが拝みに来た王イエスを新生児としてではなく「幼児」として描いているのです。中にはルター訳聖書、NABのように新生児を印象付けるような訳もあるようですが、博士たちがはるばるバビロンからイエスのもとに辿り着くまでに一年以上は経っていたようです。したがって、ヘロデがこの幼児大虐殺の命令を下した後遠からずして死亡したとすれば、イエスの御降誕は、紀元前7年、あるいは6年に落ち着くことになります。
   イエスの死の時期に関しては、イエスがミニストリーを始められたのが「およそ三十歳」であったというルカの記述と、福音書に記されているイエスの足取りからその期間が三年前後であったと思われること、また、ミニストリーを始められた時期がヨハネに少し遅れて27〜29CEと考えられることから、30CE前後に絞られてきます。以上の歴史的考証から今日、6BCEに生まれ、27CEにガリラヤで福音伝道を始められ、30CEにほぼ三十六歳で亡くなられたイエス像が大方の学者たちの間で認められていますが、コンピューターを駆使した天文学の知識を応用することによって、さらに詳細なデータが提供されるのです.
   時代をさかのぼってニ千年前のパレスチナの天体の位置関係を再現しますと、まず、7BCEのユダヤ暦のティシュリ(9/10)の月と、6BCEのニサン(3/4)の月にそれぞれエルサレム上空で日食が見られました.半年隔てて起こったこれらの日食はユダヤの民事暦の最初の月ティシュリと、宗教暦の最初の月ニサンという最も聖なる二つの月の初日に起こった、洗礼者ヨハネと救い主イエスの誕生を象徴するかのような天体現象でした。クレニオがシリヤの総督の任に就いたのは6〜4BCEと、6〜9CEの時を隔てた二期で、両期とも住民登録が施行されましたが、最初の勅令は6BCE(二回目のは使徒行伝5:37に記されています)でした。エジプトのアレキサンドリアのクレメンテによれば、イエスの降誕日は皇帝アウグスト(オクタヴィアヌス)の第二十八年、エジプト暦のパチョムの25日、ユダヤ暦のイヤール(4/5)の月の28日、6BCE 5月14日でした。聖書はイエスの御降誕に際し起こったユニークな天体現象を記録していますが、八百四十年に一回しか起こらないという現象―太陽系の二つの惑星、土星と木星が非常に接近したところへ6BCEの春、三つ目の惑星、火星も土星、木星に非常に接近、三惑星の連結により、輝く明けの明星として地上から観察された―がパレスチナ上空に起こったのでした。この状態は、金星が木星の軌道を横切ることによって明るさが失せ始めるまでほぼ一年続いたと言います。すなわち、ひときわ輝く星が、博士たちのバビロンからベツレヘムへの旅を十分に導くだけの期間、ユダヤ人の王誕生のしるしとして天空に留まっていたことになるのです。このように6BCE 5月14日にお生まれになったイエスは、生後八日目のユダヤ暦のシバン(5/6)の月の6日、奇しくも『ペンテコステの祭り』の日に、ユダヤ教の掟に従って割礼を受けられたのでした。
   ヨセファスの記録によりますと、ポンテオ・ピラトがエルサレムの総督に就任したのは、26CE、ティシュリの月の15日、秋の『仮庵の祭り』の初日で、イエスがミニストリーを始められたのもこの日、通常、祭司、ユダヤ教の教師がミニストリーに就任する年齢三十歳を少し過ぎた三十一歳の時だったのではないかと考えられるのです。また、イエスが亡くなられたと考えられる30CE前後で、ニサンの月の14日が金曜日に当たる年を割り出しますと30CE 4月7日、あるいは、33CE 4月3日となるそうです。もっとも、暦の読み方が共観福音書とヨハネによる福音書で食い違っていることからも明らかなように、イエスの死はニサンの14日、あるいは、15日の何れともみなされる点と、当時の月の初日の決め方が新月が実際に現れたことによってではなく、専門家が日没直後に新月を目撃したかに依存したため、、雲、雨、ほこりなど視野を妨害するものの影響を多分に受けたことは否定できず、科学的な手段をもってしても及ばない障害があるため、歴史的に全く間違いのない日を割り出すことは不可能なようです。しかし以上の考証から、アレキサンドリアのクレメンテが主張したように、イエスは、西暦30年4月5日、十字架上で亡くなられ、イヤールの月の28日、御降誕35年目の記念日に天の父の御許に昇天されたとみなすことが出来るかもしれません。十字架上で亡くなられたとき、「さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。三時ごろ、...イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。」とマタイ、マルコ、ルカ、三人の福音記者が異口同音に記しているように、エルサレム上空に日食が起こったのは、まさにその年30CEの4月5日だったのです。

 

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