ULDAH MINISTRY

LETTER TO THE BROTHERS AND SISTERS IN CHRIST

わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。

イザヤ65:1

第80号  2002 年5月31日


  主よ。 私はあなたに身を避けています。私が決して恥を見ないようにしてください。あなたの義によって、私を助け出してください。私に耳を傾け、早く私を救い出してください。私の力の岩となり、強いとりでとなって、私を救ってください。あなたこそ、私の巌、私のとりでです。あなたの御名のゆえに、私を導き、私を伴ってください。私をねらってひそかに張られた網から、私を引き出してください。あなたは私の力ですから。私のたましいを御手にゆだねます。真実の神、主よ。...私をあわれんでください。主よ。私には苦しみがあるのです。私の目はいらだちで衰えてしまいました。私のたましいも、また私のからだも。まことに私のいらだちは悲しみで尽き果てました。私の年もまた、嘆きで。私の力は私の咎によって弱まり、私の骨々も衰えてしまいました。私は、敵対するすべての者から、非難されました。わけても、私の隣人から。私の親友には恐れられ、外で私に会う者は、私を避けて逃げ去ります。私は死人のように、人の心から忘れられ、こわれた器のようになりました。...しかし、主よ。私は、あなたに信頼しています。私は告白します。『あなたこそ私の神です。』私の時は、御手の中にあります。私を敵の手から、また追い迫る者の手から、救い出してください。御顔をあなたのしもべの上に照り輝かせてください。あなたの恵みによって私をお救いください。...あなたのいつくしみは、なんと大きいことでしょう。あなたはそれを、あなたを恐れる者のためにたくわえ、あなたに身を避ける者のために人の子の前で、それを備えられました。あなたは彼らを人のそしりから、あなたのおられるひそかな所にかくまい、舌の争いから、隠れ場に隠されます。...主の聖徒たちよ。主を愛しまつれ。...雄々しくあれ。心を強くせよ。...主を待ち望む者よ。
                                       詩篇31篇

   もし私たちが悲嘆、失望、不安、敵意、無感動、感情の起伏、食欲異常、睡眠障害等に始終悩まされているとしたら、うつ病、うつ状態にあると診断されます。不安な世界情勢、世界的不況、唯物主義の終焉、社会、家庭崩壊等々、将来に希望が持てなくなった現代人の多くが抱えている病んだ精神状態です。生体の生理現象、ホルモン分泌や神経活動に影響を与え、現代人を無気力にしている人間の敵、このストレスの被害やうつ状態から抜け出す道は果たしてあるのでしょうか。ストレスを処理する方法はなるほど多々研究されて来ていますが、現代医学、生理学は、解決の鍵を握っているのは本人自身である、すなわち、人のホルモン分泌や精神活動に影響を与えているのは自分の心の状態である、自分の人生観、価値観にあるという理解に落ちついて来ているようです。たとえば、人の体の免疫反応は気持ちの影響を大きく受けること―ストレスに曝されると血液中の免疫細胞の活性が低下し、風邪、感染症にかかりやすくなるなど―がストレスとホルモンの相関関係から立証されているそうです。クリスチャン・カウンセリングの心理学的観点から、長期にわたるストレスの一つ、このうつ状態を定義しますと、神の言葉、真理に耳を傾けないで間違った考え、間違ったビジョンに焦点を当てた結果引き起こされる現象と言えるのです。自分に対する神の御目的、約束を見失い、自分中心なこの世的、肉的満たし、自分の置かれている窮状ばかりに目を据えますと、目標が見えず、暗黒のうつ状態にますます落ち込んで行くことになるのです。しかし裏返せば、多くのクリスチャンも陥って、期間が長引けば長引くほど底無し沼に落ち込んで行くような絶望的な印象を与えるうつ病にも、そのメカニズムを理解すれば、抜け出す方法を見つけ出すことは出来るのです。
   まず、うつ病は肉体面では、櫛を入れない髪に象徴されるような構わない外観、食欲減退、昂進、睡眠障害に、様々な不調を伴い、情緒面では、絶望感、悲嘆、恐怖、不安、苛立ちなど否定的な兆候が現われますが、これらの症状の直接の原因になっていると思われるのは、人生の辛苦、災難、告白していない罪、宗教的偽善、病、不養生、不摂生、自制心の欠如などであると言われます。しかしこれらは実際にはうつ病の真の原因ではなく、仲立ちとなる媒体にしか過ぎないのです。言い換えれば、人をうつ状態に陥れるものは、直面している困難という外的現象では決してないということです。その証拠に、同じ困難に直面してもストレスが異常にたまる人もいれば、むしろ肯定的に立ち向かい、乗り越えることの出来る人もいるというように、人によって反応が様々であることからも明らかです。さらにその要因を探りますと、うつ病の人たちには、『自己憐憫』という不健康な心的現象、姿勢が見られるのが十中八九だということです。つまり彼らは、「なんと私は哀れなのだろう。私の人生の惨めなこと! 
 こんな人生を楽しめるはずがない。可哀想な自分よ。なんと不公平な人生だろう!」というように、間違った思い、人生観を温め、心の中を堂々巡りするのを許し、病、試練、困難に見舞われると、自らがすべてを否定的な方向へ、暗闇へと引きずり込んでいるのです。それではなぜ、そのような自己憐憫に陥ってしまうのだろうかという疑問が持ち上がりますが、その答えは簡単で、『神を見失った結果』なのです。神の言葉、神ご自身に焦点を合わせないで、自らの惨めさ、不幸、不快な症状ばかりに目を奪われると、図らずも、人を神から引き離そうとチャンスを窺い、否定的な感情移入を得意とするサタンに、偽りの思い、間違ったビジョンを植え付ける隙を与えることになるのです。したがって、うつ状態から抜け出すには、神の御旨に耳を傾け、神のビジョンを見ること、神の自分に対するご計画を明確に知ることです。
   使徒パウロは、イエス・キリストによって神との平和を保っている、すなわち、神との正しい関係にあるクリスチャンは、「患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ人5:3〜5)、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ人8:28)と、人生において遭遇する万難を、神を正しく理解することによって克服できることを語っています。神学的な理論上の神理解に加えて、困難の中で経験的に神を認識していくことにより、クリスチャンは訓練され、精錬され、よりキリストに似た者へと、真の神の器へと立て上げられて行くのです。旧約聖書に登場する神の器がやはり同様に試練を通して鍛え上げられたことは周知の通りですが、代表的なのは族長ヨセフの例です。族長ヤコブの十一番目の息子ヨセフは父の寵愛を受けて育ちます。夢を通して神からも将来の約束が示されていましたが、これらのことで兄たちに妬まれ、「夢見る者」とあざけられ、ある時、ミデヤン人の商人に奴隷として売られてしまったのでした。エジプトで大変な困難に出会い、絶望感から何時うつ状態に陥っても不思議でないような不当、過酷な状況下に置かれていたのですが、ヨセフを支えたのはかつて神が示されたビジョン、約束でした。自己憐憫の罠、不道徳の罠に陥ることなく、神の約束に希望を持ち続け、ついには逆境を克服して、エジプト全土を支配する大臣にまでなることが出来たのでした。兄たちの非を許し、和解し、ヨセフが語った言葉は、「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」(創世記50:20)と、どのような状況に置かれようと、神がすべてを支配しておられることを信じ、愚痴一つこぼさず、他人、環境を責めることもなく、すべてを主の御手に委ねた者の信仰告白だったのでした。人知を遥かに超えて先んじたご計画を進めておられた神は、このヨセフを用いて、当時全地を襲った飢饉による餓死からイスラエルを守られるという御業を成し遂げられたのでした。新約聖書では、主の御業のゆえに多くの困苦、人間関係を耐え忍ばなければならなかった代表は、使徒パウロでした。理由なく投獄されても、獄やから、「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」と主に在る兄弟姉妹を励まし(ピリピ人への手紙)、「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。倒されますが、滅びません。」(第二コリント4:8〜9)と、言明することの出来たパウロの強さはどこから来たのでしょうか。それは彼の心の目がいつも主を見上げ、耳が主の御言葉、異邦人に福音を伝える伝道者として召すという約束に絶えず聞き入り、この世の試練、困苦を主が与えて下さった人生の目標を達成するための一時的な過程に過ぎないと受け止めることが出来たからでした。主が示してくださった人生の明確な見通し、目標こそ、パウロの今を正しく肯定的に生きる動機であり、原動力は主の御言葉に聞き入り、消化し、体験を通して自分のものとすることにより得られたのでした。「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(第二コリント4:17〜18)と、心の目を永遠の真理に据えることにより、この世の現象を永遠を見る目で見ることの出来た神の器の勝利の人生の秘訣でした。同様に、主の言葉と主の御旨にいつも目を留め、耳を傾けている者は、ますます主の鍛錬によって強くされ、キリストに似た者、成熟したクリスチャンへと変えられて行くのです。主の導きは確かですから、患難も、苦しみも、迫害も、衣食住の剥奪も、武器による脅しも、人間、動物、どんな被造物も御使いも、サタンさえも、私たちを主キリスト・イエスにある神の愛から引き離すことの出来るものはないのですが、ただ一人、自分だけが神の愛を拒み、サタンの手中に自らを陥れることが出来るのです(ローマ人8:31〜39)。イエスも、「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します。口から出るものは、心から出て来ます。...これらは、人を汚すものです。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」(マタイ15:7〜20)と、宗教的偽善が自分のみならず周りの人たちにも害を及ぼす公害のようなもので、自分自身の心の中の悪い考えから出て来るものであることを教えられましたが、聖書の主張は、現代医学、生理学の見解と同じで、自分の心の中に、肉体的、精神的問題を起こす根源があることを指摘しているのです。
   冒頭に挙げた詩篇31篇は、ダビデ王が苦境と罪の呵責にさいなまされ、うつ状態の兆候を呈していたとき叫んだ祈りでした。そのような否定的な状況下にあってもダビデはまず主を仰ぎ、全力を賛美に集中することから祈り始めています。主のみ前に出ることによって平安を得、自らの感情を自由に言い表すことの出来たダビデは、直面している辛い現状をありのままに主に訴えます。祈っているうちに主の御手の中に置かれているという確信が得られ、主への信仰、愛、希望で祈り終えることが出来たのでした。私たちの疲れ切った心が生命を与える神の言葉に触れ、神の御臨在を体験するとき、逃れ口のないように思えた暗闇から抜け出すことが出来るのです。それはあなた自身の決断にかかっているのです。

 

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  This month a money gift has been sent to COMPASSION to support its programmes to sponsor over 350,000 needy children in 22 developing countries. Amazingly, donation of £ 15 a month (about 50p a day) can support one child in need for his or her physical, emotional and spiritual growth in Christ. Pray for the successful fruit and expansion of the programme and also for effective evangelism to the least.

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