ULDAH MINISTRY

LETTER TO THE BROTHERS AND SISTERS IN CHRIST

わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。

イザヤ65:1

第81号  2002 年6月28日


  エリフはヨブに語りかけようと待っていた。彼らが自分よりも年長だったからである。しかし、エリフは三人の者の口に答えがないのを見て、怒りを燃やした。...人の中には確かに霊がある。全能者の息が人に悟りを与える。年長者が知恵深いわけではない。だから、私は言う。...今まで私はあなたがたの言うことに期待し、あなたがたの言い分を調べ上げるまで、あなたがたの意見に耳を傾けていた。...私にはことばがあふれており、一つの霊が私を圧迫している。私の腹を。今、私の腰は抜け口のないぶどう酒のようだ。新しいぶどう酒の皮袋のように、今にも張り裂けようとしている。私は語って、気分を晴らしたい。くちびるを開いて答えたい。私はだれをもひいきしない。どんな人にもへつらわない。...そこでヨブよ。どうか、私の言い分を聞いて欲しい。私のすべてのことばに耳を傾けてほしい。...私のくちびるは、きよく知識を語る。神の霊が私を造り、全能者の息が私にいのちを与える。...このことであなたは正しくない。神は人よりも偉大だからである。なぜ、あなたは神と言い争うのか。自分のことばかりに神がいちいち答えてくださらないといって。神はある方法で語られ、また、ほかの方法で語られるが、人はそれに気づかない。...知恵のある人々よ。私の言い分を聞け。知識のある人々よ。私に耳を傾けよ。口が食物の味を知るように、耳はことばを聞き分ける。...神は、人の行ないをその身に報い、人に、それぞれ自分の道を見つけるようにされる。神は決して悪を行なわない。全能者は公義を曲げない。...神は悩める者の叫びを聞き入れられる。神が黙っておられるとき、だれが神をとがめえよう。神が御顔を隠されるとき、だれが神を認めえよう。...神は悪者を生かしてはおかず、しいたげられている者には権利を与えられる。...神は彼らの耳を開いて戒め、悪から立ち返るように命じる。もし彼らが聞き入れて仕えるなら、彼らはその日々をしあわせのうちに全うし、その年々を楽しく過ごす。...神は悩んでいる者をその悩みの中で助け出し、そのしいたげの中で彼らの耳を開かれる。...しかと聞け。その御声の荒れ狂うのを。...これに耳を傾けよ。ヨブ。神の奇しいみわざを、じっと考えよ。...今、雨雲の中に輝いている光を見ることはできない。しかし、風が吹き去るとこれをきよめる。北から黄金の輝きが現われ、神の回りには恐るべき尊厳がある。私たちが見つけることのできない全能者は、力とさばきにすぐれた方。...義に富み、苦しめることをしない。だから、人々は神を恐れなければならない。…   ヨブ記32〜37章 下線付加

   先月号で、自分の心がホルモンの分泌や精神活動に影響を与え、したがって、間違った人生観、価値観が体をむしばんでいるというメカニズムに生理学的、またクリスチャンカウンセリングの観点から、触れました。この心と内臓との関係にはさらに興味深い発見があるのです。肝臓移植を受けた患者が自己のアイデンティティーを失い、多重人格になるという臨床例からある医学者が、人の神経の働きを左右し、感受性、思考、判断に影響を与える神経伝達物質といわれる脳内物質の基が、実は脳ではなく肝臓で生産されるということを発見したのです。肝臓が精神に影響を与えるということは、心の働きが脳以外の場所で決定されるということで、血液、粘液、また胆汁などの体液の成分の大部分を作っている肝臓が、脳とその働きをもコントロールしていると言えるほどに、肝臓の働きが見直されたのでした。現代人は心が脳にあるとみなしているようですが、古代エジプトでは心は心臓にあると考えられ、興味深いことに古代ヘブライ人は、感覚、感情を内臓で感じ取っていたのでした。ヘブライ人は生理的に自分の内臓に生じている反応、変化に関連させて、意志、感情、思考、霊性を読み取っていたのでした。たとえば聖書には、愛、恐れ、陰険、罪は心臓で、苦悶は戦闘を告げるラッパの音を聞くかのように腸に起こる反応で受け止め、腎臓では喜びを感じ取ったことが記されているのです。特記すべきなのは、神の御座の置かれた都エルサレム陥落の恐怖を肝臓が引きずり出されるような精神的痛手として表現していることでしょう(哀歌2:11)。義人ヨブも神の御心が分からず肉体的苦痛以上に精神的苦痛にあえいでいたとき、喜怒哀楽を感じる臓器、腎臓は損なわれ、「私の胆汁を地に流した」(ヨブ16:13)と言う独特の表現を用いています。また肝臓に痛手を受けたことによって、「恐れ」が生じたと言う表現もしているのです。新約聖書にもこのヘブライ人の生理的洞察は随所で窺えます。信じるのは心臓で、力づけられるのは腸、主が探られるのは心臓であり、また腎臓なのです。ヨハネの黙示録2:23では腎臓と心臓とが別記されていることから、感情を司るのは腎臓で、知的な思考は心臓で受け止めるという使い分けがされていたのかもしれません。
   他にも聖書から、ヘブライ人が抽象的思考、無形の概念を有形の物理的、物質的な言葉を通して表現していたことが窺えますが、これなどはすべて、人間を霊、魂、肉に分離して考えるギリシャ思想とは違ってヘブライ人が、霊肉のバランスが取れてこそ初めて完全体であるとみなしていたことを裏付けているのかもしれません。すなわち、体の全機能を用いて人間は思考、判断、決意、行動するように造られたということを訴えているかのようです。聖書に登場する独特の表現は、このようなヘブライ人の概念から生まれたもので、たとえば、見るは、「目を上げる」、怒るは「鼻腔に燃え上がる」、明らかにする、顕わすは、「耳に入れる」、同情しないは、「心をかたくなにする」、頑固であるは、「うなじがこわい」、備えるは、「腰に帯を締める」、〜に行くは、「〜に顔を向ける」というように、ヘブライ語の慣用法では、体の一部が意志伝達、喜怒哀楽の感情表現に大きな役割を果たしているのです。日本語も内臓が表現の中によく用いられている言語ですが、興味深いことに専門家によると、腹、胸が、腹が立つ、腹を割って話す、腹黒い、胸が騒ぐ、胸をなでおろすというように古来の表現によく登場する割には、頭を用いた表現は意外と少なく、頭が出て来る表現は極めて新しい表現法とのことです。つまり日本人もヘブライ人と同様に、心の存在場所を腹、胸とみなしていたようで、ギリシャ人が考えたように脳にあるとは考えなかったということになるのかもしれません。ギリシャ人でもアリストテレスは心の所在地を心臓とし、英国人も心臓、胸部と考えたのでした。ところが、アルゼンチンの人たちは、『目の後ろ』に心があると考えたとのことで、大脳生理学的に正しい見解をしていたのでした。すべての脊椎動物はじめ人間を含む哺乳類に、光に反応し、色別さえ出来る『第三の目』があることは約百年ほど前に発見されたと言います。ちなみに、密教と山岳信仰が結びついて生まれた「山伏」が額につけている、ユダヤ教徒の祈りの装束テフィリンに非常によく似た「と巾」は、第三の目(心?)を隠すためのものであったという説もあるようです。人間ではこの眼は、脳の内部で特殊な腺に転化していて、この上生体(松果腺)が生産するホルモンが、人の情緒、心理活動の性格を決定する視床下部・脳下垂体系に作用することが発見されたのでした。その後の研究の結果、上生体は直接膵臓にも作用し、血糖値の調節に係わっていることが分かってきているそうですが、まだまだ驚くべき秘密が解明されるのではないかと期待されているようです。米国の皮膚科医ラーナーは牛の上生体の精製物に似た合成物を作り、今日、ホルモン療法に、抗がん、坑酸化、免疫活性剤として幅広く用いられている妙薬「メラトニン」と名づけましたが、この人間の精神状態を左右する脳内物質の基を作っているのはすでに触れたように肝臓なのです。したがって、心が内臓もしくは第三の目にあると考えた古代人の直感、洞察は生理学的に正しく、自分の体の中で作り出されたものによって人の精神状態は支配されているということになるのです。換言すれば、必要な脳内物質が十分生産されるような肯定的、積極的な日常生活を営めば、血液、細胞の老化から守られ、免役機能が活性化され、抗がん力もつき、ホルモンのバランスも取れ、うつ状態からも解放されるということになるのです。そのような生活を営むためには正しい人生観、価値観を持つと同時に、自己のアイデンティティーを正しく認識することが必須です。自分自身が分からなければ将来の目標を立てることも希望を持つことも出来ないからです。この霊と肉の両方に必要な糧を与えてくれるのは、体を造られた創造者の御旨を知ること、「神の言葉」以外にないのです。
   義人ヨブの試練と癒しの話しはまさにそのことを教えています。ヨブが神の言葉に真剣に耳を傾けたとき初めて、神が正しく深く分かり、霊と魂がまずいやされたことによって肉体の癒しも起こったのでした。これまでヨブ記というと、義人にも試練の時、災いが訪れるというこの世の不可解さを教える書物―苦しみ悩んでいるクリスチャンへの慰めの書―として、神の言葉を非難のむちとし、神学的な知識でヨブを責めた不完全な三人の友人と義人ヨブとを対照することによって、とかくヨブの正しさを強調する、地上の視点からの解釈が主流だったように思いますが、全く異なった角度、神の視点からヨブ記を解釈することも出来るようです。キリスト教では、ヨブがイスラエルの神を信じた敬虔なしもべであることを疑いもなく前提としていますが、そしておそらくそのように解釈できると思いますが、学者の中にはヨブをメルキゼデク、モーセの義父ミデヤンの祭司イテロに並んで、その信仰によってイスラエルの神に認められ、賞賛されたユダヤ教以外の宗教信仰者とみなす者もいます。最後にヨブの霊の目が開けたときのヨブ自身の告白(42:5)を、知らないで仰いでいた神が天地の創り主イスラエルの神であると、神との個人的、親密な関係を持つことによって初めて知らされたと捉えるなら、そのような解釈も出来るかもしれません。いずれにせよヨブの苦悶は、神の恵みを計る基準が子宝、所有する家畜、しもべ、不動産、物資の多少、健康、人間関係、安泰の是非にあるというこの世の価値観が覆されるような出来事が起こったとき、神をどのように仰げばよいのか、なぜ自分にそれが起こったのかという問題に自ら直面したとき起こったのでした。所有していたものがすべて奪われても見事な信仰で神に信頼し、達観していたヨブに、忍従の時が解決をもたらすどころか、自分はこのまま果てしない苦痛の泥沼に引きずり込まれて行くのではないかという恐怖が襲ったとき、ヨブは自らを呪い、なぜ?と神に理由を迫ります(3章)。自分の苦痛、置かれている状況にしか目を留められなくなったヨブに神は三人の友人を通してメッセージを送られますが、自分に非がないと信じるヨブの耳は堅く閉ざされ、あくまでも自己を正当化するヨブの頑なさを責め悔い改めを迫る友人たちと、自己弁護をするヨブとのすれ違いの会話が延々と続きます(4〜31章)。根拠もなくヨブの隠れた罪を暴こうと多分に見込んだ罪状を並べ立てて、神の純粋なメッセージに自らの思い込み、感情を交えた友人たちのメッセージにヨブは、反省へと促されるどころか、かえって惑わされ、反発し、不完全な器を通しても語られる神ご自身のメッセージをも拒否してしまったのでした。最後に神はエリフを送られます。冒頭に挙げたように、エリフは自らの内に神の言葉が満ちたタイミングで、神の言葉に完全に耳を閉ざしたヨブに霊と魂に甦りの力を与える神のメッセージを注ぎ込んだのでした。自己弁護をしようとするヨブに、『黙れ。聞け。』と再三命令し、自分の問題ばかりに目を留めて心の中に渦巻く間違った思いに支配され、神の御旨が分からなくなっているヨブが再び神を見上げ、神の言葉に満たされるようにとエリフは、権威を持って神の言葉を取り次いだのでした。エリフの預言的アプローチはヨブを変え始めます。全身全霊で神の言葉に真剣に聞き入り、心の中を神の言葉で満たして行くとき神が初めて明確に分かり、義人だと思い上がっていた自分が未熟だと思っていた友人たちと変わらず、神の前に如何に小さな罪深い存在であったかに気付かされ、また、神は色々な手段で人の耳を開き、神の言葉によって生きる者に変えてくださることに目覚めさせられたのでした。地上の視点からヨブは苦悶の理由を問い続け、友人たちは因果応報を訴え、ヨブの悔い改めを迫りましたが、神の視点からは、真のしもべを求めておられる神が如何にしてしもべを鍛錬され、神の目に完全な者、成熟した信者へと変えて下さるかが人間の側からは不可解な、義人ヨブの苦悶を通して描かれたのでした。

 

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