ULDAH MINISTRY

LETTER TO THE BROTHERS AND SISTERS IN CHRIST

わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。

イザヤ65:1

第96号  2003 年9月26日


   昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、 だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。まことに、あなたがたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。                           マタイの福音書 5:21〜26.

   この世の裁きは他人に対して法に触れるどのような行為をしたかで下されますが、神の裁きは自分と神との関係の正否に対して下されます。もしある人が他人を赦せない場合、たとい他人に外的な危害を加えなくても赦せない心の状態にあるということ自体が、その人と神との関係が正しくないことを物語っており、人の心の中の悪をすべてご存知の神の裁きを免れることは出来ないのです。この世の目はごまかせても、神の目はごまかせないということです。同様に他人に暴言を吐く者は、この世の法の下では暴力行為ほどには裁きの対象にならず、黙認されるかもしれませんが、「心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」(マタイ12:34〜37)と、イエスが教えられた『神の国の掟』によれば、暴言を吐くこと自体がその人の心の中に悪が満ちていることの証拠であり、神との関係が正しくないことを自らさらけ出しているようなものです。イエスはまた、「口にはいる物はみな、腹にはいり、かわやに捨てられることを知らないのですか。しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。これらは、人を汚すものです。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」(マタイ15:17〜20)と、悪い心から出る自分の言葉によって人は汚れる、すなわち、自分の言葉、行動が自分を罪に定めることを、具体的に罪名を挙げて語られましたが、裏返せば、神との正しい関係にあり、心に平安、愛が満ちていれば、その人は他人の心無い暴言、悪意ある発言に動揺するどころか、傷つくこともないと言えるのです。その人の心が神の大きな愛、この世が与えることの出来ない計り知れない平安に包まれ、外部からの攻撃から完全に守られるからなのです。このことが、内住の「真理の御霊」聖霊によって、キリストに従う者だれにでも実現することを、イエスは、「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。わたしはあなたがたに平安を残します...わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:26〜27)と、約束されたのでした。
   冒頭に引用したくだりでイエスは、モーセの律法の遵守を外面的なこととしてしか理解せず、不完全な律法解釈を正統説として教えていた当時の宗教家たち、律法学者やパリサイ人に対して、神は律法の内面的遵守をも要求しておられることを指摘されました。すなわち、殺人という法に触れる罪を犯す者も、兄弟に向かって腹を立てる者も、神の御前には大差ないのです。どちらも罪人であることに変わりはないのです。イエスの警告はさらに信者が陥り易いわなへと及びます。神との関係を正さないままで、礼拝し、献金しても、上辺だけの献身を神は受け入れられません。神との関係の正否が、主にある兄弟姉妹、また隣人に対する自分の姿勢に反映されますから、もしこの世における人間関係のどこかにひずみがあれば、内外両面の清さを要求される神の前に立つ前にまず、すべての人間関係を正しておく必要があると言われたのでした。他人との間に問題が生じたなら、進んで仲直りし和解する姿勢こそ神との正しい関係にある者の生き方で、そのような者の献身を神は喜ばれ、受け入れられるのです。しかし人を赦さず、問題を未解決のままにしておいたら、どうなるのでしょう。その付けは時間とともに忘れ去られ、帳消しにされるというのではなく、人間関係のひずみはもっと深刻な問題、もはや引き返すことの出来ない事態−神による裁き−へと人を追いやることになるという警告でした。「もし私たちが真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです...生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。」(へブル人10:26〜31)、「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。」(へブル人6:4〜6)と、『へブル人への手紙』の著者は信者に厳しい警告をしています。イエスを信じる信仰によってキリストに罪贖われ、神の御目に義とみなされ、神の裁きを免除されたはずの信者であっても、自らのかたくなな心のゆえにキリストの愛から自らを切り離し、「神の御子を踏みつけ、...恵みの御霊を侮る」ような生き方を正さないなら、そのようなキリストをさらし者にして辞さない信者に待ち構えているのは、恐ろしい神の裁きの座であるということです。これはクリスチャンにとって大変な屈辱、最大の損失です。しかしそのような事態に至る前に、まだ事を正すチャンスは与えられているのです。それは今です。自由意志を行使できる肉の体が与えられている今をおいて二度とチャンスは与えられないことを、信者は銘記すべきなのです。主の警告を素直に聞き入れて人を赦し、今、和解に努めなくてはならないのです。
   イエス・キリストが人々をユダヤ教の律法主義から解放して下さり、業によるのではなく信仰による救いという『憐れみの福音』を広められたことを、それによってモーセの律法、旧約が無に帰されたと、間違って解釈する向きがあるようですが、「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません.廃棄するためではなく、成就するために来たのです...だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。」(マタイ5:17〜19)と、ご自身明言されたように、人の救いは信仰による一方的な神の恩寵ですが、しかし信仰告白によって「天の御国」(神の国)に迎え入れられた者は、神の御旨にかなった行動をすることが期待されていることを忘れてはならないのです。『信じる者がみな、人の子(イエス・キリスト)にあって永遠のいのちを持つためです。」...神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。』(ヨハネ3:15〜18)と語られているように、神の恩寵はすべての人類に向けられた、『永遠の生、至上の喜び』か、『永遠の死、終わりのない苦しみ』か、の二者択一の『広い道』ですが、キリストによる救いを受け入れた後、誘惑、惑わしの多いこの世に生きると同時に「神の国」に生きて行くことになる信者にとっては、聖霊の導き、助けと自らの意志、決断、努力、忍耐なしでは歩み通すことの出来ない、実に『狭い道』なのです。神の掟に則って栄冠を目指して歩む道は、並々ならぬ忍耐が要求される道なのです。「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか...天の父が完全なように、完全でありなさい。」(マタイ5:43〜48.下線付加)とは、イエスが、「神の国」に生きることを願い求める者に要求された教えですが、実行するに何と難しいことでしょう。この世の人たちが善とみなす以上のことを実践して行くことを神の国は要求しているのです.『天の父の子ども』とみなされる者は、友のために進んで自分の命さえ捨てることの出来る者、自分を無にすることの出来る者で、まさに、御子イエス・キリストご自身が手本を示された死に至るまで父のご命令に忠実なしもべの道を歩むことの出来る者であると言うのです。なるほど、主の側からまず私たちを愛して下さり、赦して下さり、生きる道を与えて下さったように、同じようにまず自分が率先して隣人に愛の口火を切って行く者が、神の国に生きる真の『キリストの証人』であるということなのです。殺伐としたこの世に在ってキリストに在る者は、率先して平和を生み出して行く者なのです。したがって、「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりにあなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」という教えに秘められている深刻な意味を理解することの出来る者は、自分の側から赦しを実践して行く第一人者であり、『キリストの証人』をおいて他にいないでしょう。
   ご自分の忠実なしもべに、イエスは他人の罪を赦す権威を授けられましたが、これはすごいことです。旧約、新約史において、神の口から出た言葉がその通り実現したように、またイエスが命ぜられたことがその通りになったように、キリストの証人が「わたしはあなたを赦す」と宣言するとき、相手の罪を主が帳消しにして下さるという驚くべきことが起こるというのだからです(フルダレター92号参照)。真のキリストの証人が増えれば増えるほど、このような赦しの実践で、不和にあった人たちの自分を赦してくれた人への罪が帳消しにされて行くのですから、究極的には多くの者が自らの犯した罪の重荷から少しでも身軽になって神の裁きの座に立つことが出来るということでしょう。もしこの解釈が正しければ、この世の人々の周りにキリストの権威によって赦しを実践することの出来るクリスチャンが一人でもいれば、その一人の存在が多くの者が救いに導かれることに貢献でき、驚くべき救いの輪が広がって行くことになると言えるかもしれません。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」とは、よく間違って解釈されているように、個人個人が信仰告白をしなくても家族単位で救われるという意味ではなく、家族の中に真の『キリストの証人』が一人でもいれば、あるいは、一人生まれることによって、家族の者が救われ、救いの輪が拡大して行く大きな可能性が示唆されたのではなかったでしょうか。各信者が、社会の最小単位である家族内の人間関係から始めて、赦しを実践して行くとしたら、キリストの体としての信者の群れのこの世への影響は実に計り知れないものがあるでしょう。相手の態度、出方に応じて自分の態度を良きにも悪しきにも変えて行くというこの世のレベルに留まるのではなく、キリストの証人には、神の国の掟に則って自分の側からまず赦し、愛の道を進んで実践して行くことが要求されているのです。

 

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