主が私の先を歩まれるから、わたしは後についていくだけ

一生を終えて後に残るものは、

集めたものではなく、

どれだけ心を込めて

与えたかである

 

  三代目のクリスチャンとして育てられた。
神の存在を幼き頃より知らされていたという環境は
本当に感謝であった。

  結婚して子育て中における信仰は義務感のようで、
神、聖書と自分の関係をあまり深く知らず、
また知ろうともせず過ごしてきたようだ。
知っている御言葉(みことば)を、ある時は偽善者(ぎぜんしゃ)、パリサイ人のように、
ノンクリスチャンに対してもクリスチャンに対しも非難の思いで
用いていたことは恥ずかしいかぎりだ。
悔い改めなければならないのは他でもないこの私なのだと、
ミニストリーレターをもらうたびに思う昨今である。

  こんな私が今まで導かれ守られてきたのは、
神の大きな摂理(せつり)と多くの人たちの祈りがあったからだと、
歩んで来た人生を振り返って改めて感謝している。
伝道の書にあるように、学ぶに時があり、すべてのことに
神のグッドタイミングがある。
私にとって今まさに聖書を学び、消化し、種蒔(たねま)きできる時であると、
一日一日を大切に、目を覚まし、主の御心(みこころ)が何であるかを伺(うかが)い、
祈る生活をしている。

  主が先を歩まれ、私がそのレールの上を歩きと、
私は道を示してくださる主にただ信頼してついて行くだけである。
主は私の心を知り、私が応(こた)えていくときに素晴らしい恵みを下さる。

  先日ある教会の週報で、テゼ共同体のビデオ鑑賞のことを知った。
以前から大変興味があり本など読んで知ってはいたが、ビデオは
まだ見ていなかったので、是非見たいものだと心の中で願った。
まさかそれが三時間後に思いがけず見ることができようとは!
実に神は人を送ってそのことを可能ならしめてくださった。
私が賛美指導している『シルバーホーム』での働きに
活気が与えられたのは、まさにこのことがきっかけであった。

  私の頭の中は朝から晩まで、何をしていてもイエスさまの
ことばかり。もちろん人間だから、物欲(ぶつよく)に走ることもある。
その都度(つど)、ごめんなさいと誤り、自分勝手な祈りをしていることもある。
そんな虫けら同然の私をも哀(あわ)れみ導き守ってくださる主。
主の名を呼び求める幸いを感謝しつつ、
この主に出会った喜びを一人でも多くの人たちにお伝えしたいと、
今日もアンテナを張り巡し、御言葉(みことば)を宣べ伝えていきたいと願っている。

  一生を終えて後に残るものは、集めたものではなく、
どれだけ心を込めて与えたかである
と三浦綾子さんが言われたが、
本当にその通り。
このようなときイエスさまだったら、どうなさるだろう?
と問いながら歩んでいる、小さき者、
それが主によって生まれ代わった新生の私である。

 

小崎 厚子 (名古屋)

 

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