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僕は28歳になるまで、神がいるのか、いないのか?
ということについて真剣に考えたことはありませんでした。
そのとき僕はいろいろつらいことがあってどうしていいのかわからなくて、救いを求めていました。
その時にある友人が聖書とイエスキリストの話を僕にしてくれました。
その時に僕は、その人が言っていることが本当のことなのか、
あるいはでたらめなのかはわかりませんでしたが、
信じることでその時のつらい状況から抜け出せるのだったら、と思い、
ワラをもつかむつもりで
「キリストが私の救世主(きゅうせいしゅ)[救い主(ぬし)]であるということを信じます。」
とその友人と一緒に祈りました。
その後自分にどういう変化があったか?というと、今までわからなかった
「なぜ人間がいるのか?」 「なぜつらいのか?」 「死んだらどうなるのか?」
といった疑問に答を聖書に見つけることができたということが一番大きいと思います。
それが2001年の12月ですので、もう三年も経(た)つんですね。そしていまだに毎日聖書を読んだり、
神様に向かって話しかけたり(祈ったり)、しています。
あきっぽい僕が三年もこんなことを続けていることに自分でびっくりしています。
僕はイエスキリストを信じた時は、それ以前に一度も聖書というものを読んだことがありませんでした。
なので初めて読んでみていくつかの聖書に書かれていることにぶつかりました[葛藤(かっとう)があった]。
今回は一番最初に自分にショックを与えたことについて書きます。
それは、
*自分自身が神に造られた存在であって、他のすべての人も、
すべての生き物も、地球も宇宙もすべて神によって造られたということ
聖書の言葉
それはあなたが私の内臓を造り、
母の胎(たい)のうちで私を組み立てられたからです。
詩篇139:13
すべてのものは、この方によって造られた。
造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
ヨハネの福音書1:3
こんなこと家の親も学校も友達も教えてくれなかったのでびっくりしました。
かなり受け入れることに勇気がいりましたが信じました。でも信じたときにいろんなことが楽になりました。
何かわけのわからない鉄板のように堅(かた)かった心と体を縛(しば)っているものがスーッとなくなっていきました。
皆さんもぜひ聖書を開いて上に書いた聖書の言葉を読んでみてください。
そして、次に僕がぶつかった聖書の部分は
世界的有名人イエスキリストとはいったい何者なのか?ということです。
上に書いたように、僕は、イエスキリストが自分のおかれていた気の狂うほどのつらい状況から救ってくれると信じて
「イエスキリスト様、僕を助けてください」と祈りました。
一緒に祈ってくれたクリスチャンの友人はその時僕にいろいろキリストとは一体誰なのか?ということを
僕に一生懸命説明してくれましたが、僕は彼の言っていることがチンプンカンプンでした。
でもキリストに向かって「助けてください」という言葉は何とか言うことが出来ました。
もうそれぐらいのことしか出来なかったので。
帰りの車の中で、僕はキリストに助けてくれとは言ったものの、
自分がキリストについてほとんど何も知らないことに気づきました。
僕のキリストについての知識といえば、
*世界史の教科書にキリストの名前が載(の)っていたこと
*十字架にかかって死んだらしい
*キリストが生まれた年が西暦0年になったらしい
ということぐらいでした。
家に帰って友人からもらった聖書を早速読んでみましたが、さっぱりわけがわからず寝ました(笑)。
次の日その友達に「聖書わけがわからん」というと、
ヨハネの福音書から読むといいらしいというので、早速(さっそく)トライしてみました。
すると前回書いた聖書の言葉
すべてのものは、この方によって造られた。
造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
ヨハネの福音書1:3
という所が一ページ目に出てきました。
それを読んだ時、何故(なぜ)かわかりませんが
「なんかヤバイ、どうすればいいんだろう」 という複雑な気持ちになったことを今でも憶(おぼ)えています。
それから何回もヨハネの福音書を読みました。
その数日後自分が神に造られたということを認めることが出来るようになりました。
そしてしばらく読んでいると、だんだんキリストは何をして、どういう人なのかわかってきました。
1、 キリストはいろいろな不思議な奇跡を行なった
イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、
ご自分の栄光を現わされた。
それで、弟子たちはイエスを信じた。
ヨハネの福音書2:11
キリストが水をワインに変えた後の聖書の言葉
2、 キリストは病人や目の見えない人、耳の聞こえない人を癒(いや)したり、
悪霊にとりつかれている人から悪霊を追い出したりした
それで父親は、イエスが「あなたの息子は直っている。」
と言われた時刻と同じであることを知った。
そして彼自身と彼の家の者がみな信じた。
ヨハネの福音書4:53
キリストが王室の役人の息子の病気を治した後の聖書の言葉
3、 キリストは沢山のメッセージを語った
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、
これがわたしの戒めです。
人がその友のためにいのちを捨てるという、
これよりも大きな愛はだれも持っていません。
ヨハネの福音書15:12、:13
キリストが十字架にかかって死ぬ前日に語った『ながーい』メッセージの一部分
(小さい文字で十ページくらいある)
とにかくこれらのことを通して僕の頭は信じる、信じない、ということは別にして、
イエスキリストでいっぱいになってしまいました。
読んだ言葉が体を埋め尽くしていったと言ってもいいかもしれません。
本を読んでこのような体験をするのは初めてのことでした。
聖書を読みはじめてから四、五日すると、
何故か僕の気が狂うほどつらかった状態は少しずつよくなっていきました。
そしてヨハネの福音書の最後のほうに書いてある二つの大きな出来事は、
4、 イエスキリストは十字架に、はりつけされて死んだ
それで、兵士たちが来て、
イエスといっしょに十字架につけられた第一の者と、
もうひとりの者とのすねを折った。
しかし、イエスのところに来ると、
イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、
そのすねを折らなかった。
ヨハネの福音書19:32、33
イエスキリストは、罪人として逮捕(たいほ)されて、
他の二人の囚人(しゅうじん)と一緒に十字架にはりつけの刑にされて死んだ
すねを折るということは体を支えられなくなるので窒息死させるため
イエスはすでに死んでいたのですねは折られなかった
5、 イエスキリストは生き返った
イエスが死人の中からよみがえったのち、
弟子たちにあらわれたのは、これで既(すで)に三度目である。
ヨハネの福音書21:14(日本聖書協会口語訳)
イエスが生き返ってからイエスの弟子たちが湖で漁(りょう)をしている時に、
突然キリストが岸辺に現れるという場面
このときイエスは弟子たちと食事を一緒にする
繰(く)り返し読むうちに大体ヨハネの福音書というところに書いてある事がわかってきたころ、
僕はこれらキリストについての五つのことを、
作り話でなく真実のドキュメンタリーとして受け取るということを努力していました。
心の底から聖書に書いてあるすべてのことを本気で信じてみたいという気持ちがあったからです。
というのは、自分が聖書を読み始めてから苦しい気持ちが少しずつ癒(いや)されてきているにもかかわらず、
やはり聖書という本そのものに疑いをもって読んでいたんですね。
自分自身が神に造られた創造物だと認めることが出来たものの、
しかしいくら自分に努力して言い聞かせても
これらの話が、現実のその時の自分に個人的に関係のある話とは思えませんでした。
ただ不思議なことは、ヨハネの福音書の中の一つのある言葉だけは、
僕にとって超個人的に感じることが出来ました。
それは何かと言うと「罪(つみ)」という言葉でした。
「罪」が自分と無関係なことではない。
むしろ自分が聖書やキリストに触(ふ)れる前から
そいつ、「罪」は、僕とともに生きて深い関係を持っているような気がしました。
それは、いつからかはっきりわかりませんが、僕が十代の頃から少しずつ暗い闇(やみ)として大きくなりながら、
僕の中の内側に確実にザックリと食(く)い込んでいた何かでした。
これを読んでいる人も感じる人がいるんじゃないですか?
自分の中にある暗闇、または「罪」と聞いて、心の中でうごめく醜い、汚いものを。
市川 祥 (千葉)
続く

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