5.イエス・キリストの再臨、聖者の甦り

旧約の預言者たちが預言したように、イエスのご降誕によって、古い時代の終わりが告げられ、新しい時代が到来しました。しかし、実際には、この古い時代は、まだ新しい時代に重なって続いているのです。新しい時代はもう来たのですが、まだ完全にではないということです。言い換えれば、イエスを信じ、自分を罪から解放してくださるキリストとして受け入れたクリスチャンは今、もうすでに救いの中に在るのですが、それでも、まだ救いの完成を味わうのを待っているという状態に匹敵します。
この二つの時代が重なり合っている時期が永遠に続くはずはなく、この目に見えない、聖霊の働きによってのみ体験することのできる「神の国」にやがて終止符が打たれ、「神の国」が世界的な、目に見える現実になるのはキリストの再臨の時に到って初めてなのです。使徒パウロは、この不完全な終末の時代に生きるクリスチャンのジレンマを、


私たちはこの幕屋(この世の肉体)にあってうめき、この天から与えられる住まい(甦りの体)を着たいと望んでいます、
今の時の軽い患難は、私達のうちに働いて、
測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです

と、表現しています。

 新約聖書には、何と三百以上ものキリストの再臨に関する参照文があります!この「核時代」、一瞬先のことが分からない脅威にさらされて生きている私たちにとって、神が歴史を統括しておられるからすべてを主にお委ねすればよいこと、キリストの再臨のとき、信じる者には約束の成就、喜び、完成がもたらされるということが揺るぎない確信であり、希望であるなら、何と素晴らしいことでしょう。これにまさ勝る慰め、平安はこの世にはないでしょう。
  イエスの再臨の「時」に関しては、すでに西暦一世紀の初代教会の時代から、

終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望にしたがって生活し、次のように言うでしょう。
「キリストの再臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠ったときからこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」


という(あざけ)嘲りに対する警告が与えられていましたが、


主は、ある人たちが遅いと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。
かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、
すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです


と、使徒ペテロは、すべての人の救いを願って止まない「神の愛」が「神の忍耐」であることをまず教え、続くくだり件で、しかしキリストがこの世に報酬と裁きを下される再臨は必ず起こる、すなわち、次に起こることになっている神のご計画の大イベントであることを警告したのでした。
ノアの時代に先立つ大文明が地上から一掃された出来事、「ノアの大洪水」が実際に起こったように、主が約束された再臨も誰の目にも明らかな出来事として起こるのです。私達は初代教会の時代より、二千年近くもキリストの再臨に近づいているのですから、このみ御言葉は、かつてないほど深刻に捉えられるべきでしょう。
 しかし同時に、私たちは昨今、にせ偽預言者、宗教指導者たち、占い師たち、霊能力者たちによって、 間違って予言されている世の終わりの年、日時に惑わされている多くの人々を見ますが、聖書ははっきりと、天の父なる神のみがその「時」をご存じなのであって、みこ御子イエスですらその「時」をご存じないことを記しています。しかし、イエスは、目を覚まして、世の事象の中に現れる再臨のしるし徴を見落とさないようにと忠告されました。
イエスの初臨の目的は、


失われた人を捜して救うため、世が救われるため


でした。しかし、今度は、民を裁くために、人間史に結末をつけるために、主の民を解放するために、クリスチャンに対する神の約束を完成するために、イエスはこの地上に、


天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、


すなわち、甦りの体で戻ってこられるのです。そのとき、「患難の時」を最後まで堪え忍んだ者たちに、待望のイエスと同じ甦りの体が与えられ、キリスト支配の千年王国がこの地上に始まることを聖書は語っています。

神の約束