8.罪

今日の新聞、テレビ、ラジオの報道は、毎日のように、暴力、不正、無秩序、混乱、犯罪、憎悪、差別に満ちた社会の罪悪を描き出しています。これら諸悪の根源を他人や環境のせいにしてしまうことは、容易(たやす)いことですが、果たして自分は潔白で、罪が全くないと言い切ることができるでしょうか? イエスは、姦淫(かんいん)の場で捕えられた女を、モーセの律法に従って石打(いしうち)にしようとした宗教指導者たちに、
あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい
と言われました。
自分を見つめたとき、あなたは、
あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。
さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。...
私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、
かえって、したくない悪を行なっています

と、使徒パウロが語っているのが、
まさに自分の姿であると、素直に認めることができるでしょうか? 
全知全能の神の答えは、
すべての人は、罪を犯した...
義人はいない。ひとりもいない

です。

  あるいは、あなたは「皆がやっていることだから」と、罪を犯すことは人間の当たり前の本質だから、社会の法に触れるような犯罪でなければ問題ないと、軽くみなしてはいないでしょうか? それに対し聖書は、
人の心は何よりも陰険で、それは直らない...
内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、
悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、
ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、
内側から出て、人を汚すのです

と、問題の根源が、人間の行なうことにあるのではなく、
人間そのものにあることを、厳しく指摘しています。人間は、罪人(つみびと)であるがゆえに、罪を犯すのです。

  へブル語聖書に記されているイスラエルの民の神に対する反逆の歴史は、神が愛の神であると同時に、ご自身
あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、私を憎む者には、
父の咎(とが)を子に報い、三代、四代にまで及ぼし

と宣言されたように、
罪にようしゃ容赦なく報われる「怒りの神」でもあることを語っています。出エジプト後、荒野で、不平、不満に明け暮れるイスラエルの民のために執り成し、何度も神の怒りをなだめて来た、神に忠実な者と認められたあのモーセでさえ、たった一度、神のご命令通りに行なわなかったことによって、乳と蜜の流れる地カナンに入ることが許されなかったことを聖書は記しています。

では、聖書が語る罪、神の視点から見た罪とは、
一体どのような罪でしょうか?
神の完全な基準に達することができない者はすべて罪人(つみびと)であり、犯した罪は必ず裁かれるというのが聖書の答えです。すなわち、神の権威とおきて掟に従わない故意の反逆はすべて罪なのです。選択の自由が与えられている人間は、罪を犯す(神のみむね御旨に服従しない)道を選ぶことによって、神に反逆しているのです。
  なる神は、決して罪を見過ごされることはありません。この世の目をごまかすことはできても、神の目をごまかすことはできません。
私たちは、おのおの自分のことを
神の御前に申し開きすることになります

とパウロが語っている、
私たちの死後訪れる神の裁きを、だれも免れることはできないのです。
ヨハネの黙示録20:11〜15は、最後の審判の光景を描写していますが、いのちの書に名が記されていない者はすべて火の池(地獄)に投げ込まれ、永遠の苦しみを受けることになるとはっきり告げています。

神の国