9.罪からの解放

「地獄」と聞いて、複雑な反応を示される方が少なからずおられると思います。死んだらどうなるのか?という疑問は、色々な考えを生み出してきました。死んだら何も残らない、苦しみも喜びもなく、それですべてが終わると考える人から、すべての者が天国に行くとか、あの世には、罪深い魂が天国に入るために備えられる場所があると信じる人まで、様々です。しかし、聖書は、このいずれの考えも支持していません。

主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、
永遠の滅びの刑罰を受けるのです
 
 と記されているように、
つみびと罪人の行く先は、神から引き離された永遠の苦しみの場、地獄です。
イエスが、ラザロ、アブラハムという固有名詞を用いて神から引き離された場の恐ろしさをありありと語られたのは、このたとえが人々に警告を告げるために作り上げられた架空のことではなく、現実のことであることを意義深く語っています。
それでは、私たち罪人が、
神の裁きから逃れる道はあるのでしょうか?
あります。
注意深くここまで読み進んでこられた読者はすでに、いのちの書(6、8章で言及)とは何のことだろうか?と、関心を持たれたことでしょう。最後までいのちの書に名が記されていることが、永遠の滅びから免れる道であると、聖書は語っています。もっと厳密に言えば、小羊のいのちの書に名の記されている者は滅びに至る裁きを免れることもできるのです。

 人間は、宗教的な動物と言われています。
 人間は自らの宗教心を満たすために、太古の昔から神を崇拝してきました。神のご命令、警告にもかかわらず、太陽、月、星、火、水、木、石、鳥、動物、等々、この地上にあるすべてのものが崇拝の対象になってきました。また、神を崇拝するつもりがいつの間にか、いけにえ犠牲をささ捧げることとか、宗教的な儀式を行なうこととか、聖典、礼拝を守ることであるかのような曲解も生じてきました。

果たして、神のためと称して、自らの宗教心を満足させ安心させるため
何か宗教的なこと、霊的なことをすることが、いのちの書に名が記されることでしょうか?これに対し、聖書ははっきりと、
神は、
何かに不自由なことでもあるかのように、
人の手によって仕えられる必要はありません、

また、
人は神の役に立つことができようか。
賢い人でさえ、ただ自分自身の役に立つだけだ。
あなたが正しくても、それが全能者に何の喜びであろうか。
あなたの道が潔白であっても、それが何の益になろう

と語っています。


きよ聖いものを人間の汚れた器から出すことができないことをご存じの神は、宗教的な努力、行為によって救われようとすることのむな空しさを至るところで語っておられます。神が人間に求めておられるのは、絶対的な服従のみなのです。
  このように、人間の手による宗教によって、人間はまった全き神を満足させることはできません。宗教は、人間の罪深い本質を変えるどころか、罪を取り除くことすら出来ないのです。では、絶大な創造者の前になすすべ術もなく、人間はただ自分の無力さに絶望感をいだ抱かざるを得ないのでしょうか?

しかし、愛の神は絶望のどん底にある人間に、
救いの光を送って下さいました!
主を求め従う者の名が小羊のいのちの書に記され、永遠の救いに入れられるようにと、イエス・キリストをすべての人間の救い主としてこの世に送ってくださったのです。


聖書は、
この方以外には、だれによっても救いはありません。
世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、
どのような名も、人間に与えられていないからです

と、イエス・キリストが、
人間が救われる唯一の道であることを教えています。

神の国