1. 神があなたを愛しておられるという事実を受け入れる

 この事実を受け入れるのが難しいという人は、たとえばマイクのように、「聖書が真理であることは分かっている。神が自分を愛していると聖書が言っていることも紛れもない事実であると分かっている。でも、どういうわけか、自分の人生経験からはそれを現実のこととして受け入れることができない。幼少期に愛を知る経験が一度もなかったので、多分これが、聖書が語り説明しているようには神の愛を認め、分かることができない理由なのではないかと思う。」と言うものです。
そこでセルインは、「マイク、君が今言った言葉、『幼少期に愛を知る経験が一度もなかった』という言葉に、もしかしたらすべての問題の鍵があるかも知れないよ。」とカウンセリングを始め、人間はだれしも人生を依存の状態でスタートし、愛される必要があることをマイクに説明したのでした。

「神の愛」に対する私たちの感じ方は、私たちがどのように両親に愛されたかという経験によって大きく左右されます。もし両親の愛が気紛(きまぐ)れで、条件つきであったとしたら、当然神の愛も気紛れで条件つきであろうと予想することになるわけです。両親が溺愛(できあい)で子どもをやたらと甘やかしたとすれば、神もそのように神の愛で甘やかしてくれるであろうと予想するのは当然です。反対に、両親が厳格で懲罰(ちょうばつ)を科したとすれば、神に対してもそのような風に見るようになり、神の愛に対する感じ方は歪(ゆが)められることになります。   神の愛を受け入れることが難しいと感じている人の人格形成には思いのほか、幼少期に愛の経験を剥脱(はくだつ)されたということが関わっており、それゆえに心の中に潜在的(せんざいてき)に恨(うら)み、辛(つら)みが残ってしまうと、セルインは説明しています。
両親との関係も対人関係もすべてがうまくいっていますと明言したマイクでしたが、セルインとのカウンセリングを通して彼は、幼いときの辛い経験がまだ彼自身の心の底で解決されないままに抑圧されていたのに気づかされたのです。マイクの意識のレベルの下から今やっと表面に押し出されてきたのは、長く抑圧されていた彼の両親に対する怒り、恨みの気持ちでした。マイクは、このことを素直に認め、自分の人格の中に他にも根付いてしまっているかもしれないすべての恨み、辛みから今解放されたい、それらを取り除く助けをしてほしいと願ったのでした。

祈りの中で、これらの否定的な感情はひとまとめにキリストの十字架の前に差し出されました。そこでマイクは、そのような怒りの感情が心底にくすぶっていたことを認め、長く抱いてきた怒りに対して主の赦(ゆる)しを請(こ)うことによって、初めて心底から解放されたのでした。また、何よりも素晴らしいことに、マイクの実(じつ)の父に対する否定的な感情が取り除かれたことによって初めて、天上の霊の父である神が、マイクを愛しておられるという聖書が一貫して証(あか)ししている事実を受け入れる道が開かれたのです。

神が私たちを愛してくださっているという究極的な証拠は、イエス・キリストの人格の中にあります。キリストが人間として降誕され、罪人(つみびと)として十字架上で死んでくださったということは、神が私たちと同じようにご自分をみなしてくださったという途方もないことなのです。私たち罪深い人間を神ご自身のようにするため、私たちを罪から救うため、神は十字架上で私たちの代わりに苦しみ、死んでくださったのです。十字架上のキリスト、すなわち、『神の自己犠牲』を見上げるとき、神の愛を知ることになるのです。

マイクの例から、もしあなたが、神があなたを愛してくださっているという事実を受け入れることが難しいと思うなら、まず、神に、あなたの中の隠れた否定的感情をすべて取り除いてくださいと祈り求めることです。かつてあなたが対人関係で経験した拒絶という苦々(にがにが)しい傷を癒(いや)すことのできる方は、あなたを造ってくださった神をおいて他にいないのです。もしそのような思いが潜在(せんざい)していたとしたら、悔い改め、あなたを傷つけたり、意地悪くした者のだれに対してももはや、何の恨み辛みも抱(いだ)いていないことを確かなものにしてください。そして、あなたの思いの焦点を真理へと向けていくとき、間違いなく、この世が与えることのできない素晴らしい安らぎ、平安に満たされることでしょう。