3. 自分の歩みに対し個人的な責任をとる
私たちは自分に起こったことに対して責任を問われませんが、起こったことにどのように対応していくかに対して責任を問われる、ということを認識することが大切です。
残念ながら、多くの現代の心理学者たちは、人間はその行動に対しては実際には責任がない、という考えに寄与してきました。あなたのお母さんがあなたを愛さなかったから、あなたは大変なコンプレックスを持つようになってしまったと、彼らは言います。 しかし、セルインは言います。過去に起こったことがたとえどのようなことであったとしても、あなたが本気で望んだのであったなら、違った反応、対処をすることができたはずであると。環境や他人を責め続けるかぎり、私たちは、「キリストにあるなら」過去のすべてのしがらみ、すべての間違った態度、すべての否定的な思いから解放されることができるという真理を、見失ってしまっているということなのです。

アンナ・ラッセルの次の歌は、自らの行動に対して責任を取ろうとしない今日の多くの人々が侵(おか)されている『症候群』を絶妙に言い表しています。
精神科医のところへ行った
精神分析をしてもらうために
なぜ、猫を殺したかを解明するために
そして、なぜ、妻の目に隈(くま)をつくらせたかを。
医者は俺(おれ)を柔らかいソファーに座らせた
何かを見つけようと
そして医者がさらい上げたことといったら
俺の潜在意識から:
俺が一つのとき、おふくろは隠した
俺の人形をトランクの中に
だから当然こうなるさ
いつも俺は酔っ払ってるのだ。
俺が二つのとき、俺は見た親父が
ある日女中とキスしているのを
だから今俺は苦しんでいるのだ
盗み癖(ぐせ)で
俺が三つのとき、俺は苦しんだ
俺の兄弟への気持ちの矛盾で、
だから当然こうなるさ、
俺の恋人をみな毒殺した。
教訓を学んで嬉しいよ
教えられたことはね、
俺がやっている悪いことはみな
だれかさんのせいだってことよ。
しかし、こんな調子で私たちが自分に対して責任を取らないなら、絶望、失望のどん底から這(は)い上ることのできる望みはほとんどないのです。

でもこんな風に考えることができたらどうでしょうと、セルインは提案します。「なるほど、人生はあまりにも残酷で、逆境の連続だったかもしれない。でも、私と同じような問題に直面してきた人たちの中にも、違った風に対応してきた人たちはいるのだ。それなら、私にだってできるはずだ。ひとつ私の人生にキリストを受け入れ、キリストの力で、私を傷つけてきたすべての人を赦(ゆる)し、『試み』を『証し』に、『困難』を『発見』に変えてみようではないか。」と。
私たちの人生に突然押し寄せる難題は、反応次第で良くも悪くも、楽しくも辛くもなるのです。このことは自分ひとりでは達成できることではありません。しかし、キリストによって強くされるならだれでも、神のご計画と栄光に向かって、立ちはだかるすべての問題、敵を克服していくことができるのです。