4.あなたを傷つけた人をすべて赦(ゆる)す

   だれも恨みを担(にな)うことのできる人はいません。あまりにも代償(だいしょう)が大きいからです。赦せない霊を心に抱いているかぎり、失望と絶望のどん底から這(は)い出すことは期待できないのです。これは、キリストが、山上の垂訓で明らかにされた原則「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」(マタイ6:14〜15)です。   あなた自身赦しを必要としているなら、そのように他人を赦すことです。他人を赦すことを拒むとしたら、神があなたを赦そうとされるのを妨げると同じことだからです。神は、赦さない者を赦してはくださらないのです。

  この地上で宣言された最も道徳水準の高い声明といえば、「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」(ピリピ人2:4)でしょう。キリストがあなたを扱ってくださるように、お互いそのように他の人を扱うことが奨励されているのです。
   怒(おこ)るという感情を劣悪なこととは認めたがらないクリスチャンは案外多いのですが、なるほどもし怒りが正当化されるものであるなら、そのような感情を抱くのは合法的であるというように信じているからです。
しかしここで間違ったステップを踏んでしまったら取り返しのつかないことになってしまうので、これに関して誤解のないように言っておくと前置きして、セルインは、怒りという否定的感情の性質そのものではなく、そこから滲(にじ)み出る毒を、「心の中の寄生虫」として警告しています。合法的かどうかはともかく、その邪悪な寄生虫は、怒りを引き起こす人の心の中にいるのではなく、それをもてなし暖める人の心の中にいるというのです。

自由と解放を味わうためには、怒りの感情と不正行為を徹底的に明るみに持ち出して、キリストの十字架に釘づけにし、全(まった)き者とされなければならないのです。