5.自己(じこ)憐憫(れんびん)を避ける

  感受性の強い、簡単に傷つきやすい人たちが、最も自己(じこ)憐憫(れんびん)に陥りやすいということが分かっています。感受性とは同情してあげることのできる能力であって、この心の奥深いところを感じる能力が、実際には、他の人のために用いられるよう神が備えてくださったものであるということに気づくまでは、この能力が備えられた人はいつも愚痴(ぐち)っぽく惨(みじ)めで、泣き言、不平を洩(も)らしてばかりいる人という風に見られているかもしれません。

自己憐憫は、些細(ささい)なことを大仰(おおぎょう)に、ちょっとした不都合を非常な災難にという具合に次第に大げさに感情を支配していきます。セルインは、男女を問わず自己憐憫にとりつかれた人を次のようにたとえています。
彼らは大変な身体の病(やまい)に苦しむ人たちでごったがえした病院の病棟を通り過ぎるとき、どんなに苦しんでいる人たちを目のあたりにしても、相変わらず自分の軽い頭痛に愚痴をこぼしながら病院を後にすることのできる人であると。
彼らの人生の生き方に共通した傾向は、思考においても情緒においても、人生観が全般に悲観的で、すべてが、それ一色に染まってしまっているということです。暑ければ寒いのがいい、寒ければ暑いのがいいという具合に、すべての出来事の悪い面を見つけるには早く、見つけることができないと、作り上げたりもしてしまうのです。

   果たして、自己憐憫を克服することはできるのでしょうか。セルインによれば、情緒という言葉は、外への動きを示唆しており、したがって、憐憫は本来、他の人に向けられるべき憐れみの感情なのです。愛に飢え乾き、多くの人たちが憐れみを求めているこの世にあって、外に向けるべく備えられた憐れみが内側、すなわち自分に向けられ自己憐憫になってしまっているとしたら、私たちは間違った方向に導かれているということで、キリストに目を留め、キリストの例に倣(なら)っていないということになるので注意しなくてはならないのです。

   自己憐憫を克服する秘訣は、神と、神の御子(みこ)イエス・キリストに焦点の置かれた心にあるのです。王の王なる方に仕えることによって、あなたの感受性を他の人への同情と憐れみの心へと利他的に向けていくとき、だれか他の人の重荷のために人肌脱ぐことから溢れ出る喜びを味わうことになるでしょう。